調査のイロハもなく

こっけいな証言

 去る九月十六日、第二回の「月刊ペン事件」の差し戻し公判が行われた。この日は、被告人・隈部の証人としてT(退転者)が証言したが、全く滑稽(こっけい)な内容に終始した。

 たとえば、会長就任は昭和三十五年であるのに「昭和三十六年」といったり「昭和三十六年に国立競技場で私の妻が踊った」といったが、これは男子青年部だけの会合だった。また「昭和四十三年に創価大学に行って……」といっているが、創大の開校は昭和四十六年である。このように、その証言はまるで支離滅裂なものであった。

 また、証言の根拠を問いつめられると「男のカンで分かった……」などと言い、あげくの果てに「山崎正友から聞いた」とか「週刊誌で知った」とか、傍聴席にいた新聞記者達もあきれて失笑の連続だった。

 裁判長もたまりかねて「直接、あなたが見聞した事実を述べなさい」と注意を促すこと再三。すると途端に「すいません」「すいません」と連発するこの男……。

 そもそも昭和五十四年にも、隈部は、大阪に住む某氏に証言を依頼。某氏が“嘘はつけない”と要請を拒否すると、隈部は十五万円とお菓子を置いて帰った。その後も「お金というなら二、三千万円あげてもいい」と執拗に“裏工作”していたとか。

 ともかく隈部らは、多くの内外の人々から絶大な尊敬をうけている名誉会長の人格を、ねたみ狂い、なんとか泥をかぶせようと、ただただ中傷記事をデッチ上げようと狂奔するばかりである。

 一部には、隈部を名誉毀損で告訴していながら最近の週刊誌を告訴しないことに因縁をつけるむきもあるが、ナンセンスの極みといってよい。

 これらの週刊誌記事は、山崎・原島による陥れの策謀であることは、誰人も知悉(ちしつ)している。山崎らの意図するところは、面白半分に法廷や世間を騒がせて行こうとする“悪趣味”にすぎない。その策謀に乗ることは、愚の中の愚であることはいうまでもない。

 また、週刊誌の中傷記事がねつ造であることは戸籍謄本や血液型で一目瞭然のこと。調査のイロハもない虚構であることは、当局も十分に知っていることだ。

 山崎は、自己の策略が思うようにならなくなり、今は、謗法の隈部と手を組んで、再び、小才を弄しているしぐさにほかならない。

 この隈部は、新興宗教・某教団の最高顧問格というから、その裏の実体や意図もおのずから明瞭といってよい。

                                  (56・10・11付)

 

なんとむなしき嘘で作り上げた証言

  「月刊ペン事件」の裁判が二十六日、開かれた。この法廷には、毎回、いわくありげな、滑稽(こっけい)な証人が次々と。今回登場したのも退転者であり、前回の小沢某と檀徒として行動を共にしている飯野某という老女。

 この飯野某、昭和二十九年秋、埼玉のM宅で小沢と一緒に名誉会長を見たというのだが、ストーリーも同じなら言葉遣いも全く同じ、口裏を合わせたことは明瞭。丸暗記したことを必死に話すのだが、一歩、問題が予定のストーリーからはずれると、途端にしどろもどろ。あげくの果てに小沢証言が作り話であることを次々と証明していくはめになった。

 数えあげればきりがないが、その一つに。名誉会長には、それ以前にいつ会ったことがあるのかとの質問に――二十八年暮れ、某中学校講堂の指導会で遠くから見たことが一回ある、と。

 それだけでは、暗い部屋の中で、しかも瞬間的に垣間見るだけで識別できないだろうとの質問に――。

 自分の家の仏間には、名誉会長の大きな写真を額に入れて飾っていたので良く知っていた、と。その写真は大白蓮華か聖教グラフから切り取って使った、と証言。

 裁判長から「戸田会長当時、参謀室長の写真をどうして掲げたのか」と聞かれ、嘘がばれてしまう。

 この“目撃”が明らかな嘘であることを裁判所は鋭く見破っているに違いない。

 だいいち、二十八年の暮れに、そんな指導会はない。名誉会長が行った事実も全くない。当時、聖教グラフは創刊されていない(創刊は三十四年)。また大白蓮華にそのような写真が掲載されたこともない。

 この一点を見ても、すべてが“偽証”であることは明々白々である。

 飯野某、証言に立つまで小沢と相談したことは決してないといいながら、問い詰められて「実は十月八日に会った」と自白。そして「間取り図は小沢と相談して作った」とも。よって、二人の証言が共謀してねつ造したものであることが見破られた。

 そもそも、二十九年当時、二人が語る問題の部屋はなかった(家族の言)ので、目撃した話がすべて嘘であることがはっきり証明されたのだ。

 なお、亡くなった人を名指しで利用し、聞いたとか、言ったとかの嘘八百には笑いが止まらない。

 当時、M宅は人通りの多い文房具店。地区拠点でもあり、夕方どきは人の出入りが激しかった。そのうえ古い家で戸をあけるとガタピシャと音がするありさま(当時の幹部の言)。

 しかもお手伝いさんがおり、そのような虚言がいかにでたらめであるかは論をまたない。これらは検察側の証人が登場すれば、いっぺんに明確になることだ。

 名誉会長は当時からすべての青年を弟のごとく妹のごとく大切にはぐくんでいた。そして参謀室長がどこへ行っても心から慕い、尊敬する数多くの青年がはせ参じていたのが現状だった。

 加えて、当時から名誉会長宅の仲むつまじい家庭の姿は、全会員の模範であり、誰人もよく知っていたことである。

 親分格である小沢某の家庭内の複雑さが、目に余ることは、今や周知の事実。また、小沢は、何かの理由でM宅との確執があったことも事実のようだ。

 彼女らが、裏で策士に教わりながら、手をかえ品をかえ虚言を弄する姿は、おもしろくも、滑稽である。

(56・10・29付)

 

堕ちもおちたり原島

卑劣な心で作り話

 堕(お)ちもおちたり原島――月刊ペン事件の公判(九日)に被告人・隈部側の証人として出てきた。三時間余にわたり、妄想にとりつかれたようにデタラメなデッチ上げの証言に終始。あたかも自分が目撃したかのごとく、卑しい作り話を得々としゃべる姿は、人間の皮を着た畜生にも劣る堕落ぶり。

 たとえば原島は「昭和三十二年一月二日、大田の自宅で云々」と。正月二日は、戸田第二代会長当時から総本山に初参詣する伝統になっていることを、彼は知らないのか。つねに戸田第二代会長と行動を共にしてきた名誉会長も、この三十年来、この日は、総本山に参詣していることは周知の事実。

 また「四十七年七月ごろ、雪山坊でM子さんを見た」と。だが当時、M子さんは国会議員として活躍中。七月は総本山に参詣していない、とM子さん自身、一笑に付しながら断言する。

 さらに原島、「八矢弓子さんも国会議員だった」というに及んでは、あいた口がふさがらない。痴呆症になったのではないかしらん。一事が万事。彼のこんな支離滅裂な話をまともに聞く者は誰もいはしない。

 原島は、昭和四十五年、上田副会長(当時・高等部長)から聞いたと称して、目撃事実の全くない下劣なストーリーを作り上げて一方的に話す。言論問題の渦中にあった当時、名誉会長がどれほど心を砕き、病体をおして夜を日に継いで指揮をとっていたか、原島もよく知っているはず。それを故意に隠して卑しい話にすりかえるなど言語道断。“鬼畜の心”という以外にない。

 知らぬ間に伝聞の当事者に仕立て上げられた上田副会長は心底から憤りをこめて「こんなデタラメなことを、よくも平気でいえるものだ。真実を知ってもらうために偽証として断固、告発するつもりである」と語った。

 原島の証言は名誉棄損を裁く法廷で、さらに新たな名誉棄損を重ねている。彼にはもはや罪の意識などカケラもなく、名誉棄損であろうが、人権侵害であろうが、ともかく人を傷つけることに狂奔している。嘘であろうが作り話であろうが、一部の俗悪週刊誌が飛びつきそうな煽情的なものでありさえすればよい、悪どいほど競って取り上げるだろうという魂胆なのだ。

 これは法廷と一部の俗悪マスコミを利用した、人間の尊厳に対する“悪”の挑戦である。人を守るための法が厳正に執行されるべき裁判の場を、このような悪の手によって汚すことは、断じて許すべきではない。

                                   (56・11・11付)

 

醜い野望の結託

裏で“黒い金”が次々と

 卑しい学会攻撃に狂奔している原島だが、彼は今、檀徒の謗法新聞「継命」に寄生し、毎月二十万円もらっているという。

 原島がまだ聖教にいる一昨年秋、彼がくるというので「継命」編集室では、わざわざ、その用意をしていたという事実も。ところが、彼がなかなかこないので、正信会の山口法興から山崎正友のところへ何回かさいそくがあったということも分かっている。この原島、学会攻撃用の資料を盗み出した時にも山崎から金をもらっているが、実はそれ以前から、定期的に金を受け取っていたことも明らかになっている。

 たとえば、五十四年六月ごろから九月にかけて毎月二十万円前後の金が山崎から原島のもとに届けられていた、という。山崎は「原島が金に困っているから渡してやるんだ」といっていたというから、酒や女のみならず、やすやすと金づけにもされていったわけだ。

 その年の九月、原島が資料を盗み出した時には「当座の小遣いに」ということで五十万円位入った封筒が彼に――。その直後、山崎は原島の隠れ場所を探すよう、自分の部下に指示を下している。さらに九月末には「よく政治家や芸能人などがマスコミの取材をかわすため入院するだろう。そんな病院を探せ。原島を入れるんだ」といって山崎は部下に手配させている。

 原島が急病を理由に目黒のA病院に入院したのが、十月一日。翌日にはすぐに新宿のB病院に移っているが、入院の際、多額の現金や預金通帳とともに、山崎正友の署名のある額面二千万円の個人小切手を所持していたことも分かっているとのことだ。

 そのころ原島は例の“懺悔手記”のもとになる原稿を書き、山崎の事務所へ持参。原島は、この原稿について、どのように加筆訂正し、出版してもかまわない、との一筆を山崎に出している。

 山崎は、それを周りのものに見せて「原島に一千万円払ってあるんだ。どのように原稿を使ってもいいんだ」と、得意満面だったというから、まさに悪魔の哄笑(こうしょう)だ。

 ちょっとあげただけでも、これだけの黒い金の動き。山崎と原島の陰湿なつながりは明白だ。酷い私利、画策をいかにごまかそうとも、賢なる人は誰人も彼らの言を信じはしない。

   (56・11・14付)                              

 

偽善者の典型

原島という男の分析

 品性下劣な者は、その角度からしか物事を見られない。「カニはその甲羅に似せて穴を掘る」という。原島という男はその典型的な存在だ。彼が虚言を弄(ろう)する作り話は、すべて彼の卑しい品性の投影でしかない。彼の行動の数々から、その二面的な異常性を、いくつか紹介してみよう。

 都内のある会社社長の証言。

 「五十二年春のこと、彼が私の店にきた。酔眼で女性客に抱きついたりして困った。そればかりか店にある三百万円もする高級品に目をつけ“よし、これを買ってあげよう。福運をつけてあげる。三十万円にまけとけ。手金で一万五千、あとは五千円の月賦払いで”と勝手に支払方法まで決められてしまった。今、考えても腹が立つ」

 同じく、ある会社社長の言。

 「銀座のクラブに連れていけ、とたびたび強要された。幹部には黙っておけ、と念を押すことも忘れなかった。格式ある店なのに恥ずかしい思いだった」

 また彼と多少交際のあったある医師は「次は私が会長になるのだからと宣伝するので、馬鹿げた子供みたいなことをいうと思ったが、みすぼらしい彼の洋服を見て、二度も洋服を買ってあげた。また電話をかけてねだるので、銀座でお酒や天ぷらをごちそうしてあげたこともあったが、今考えても後味の悪い思いが残っている」と。

 昨年、内藤国夫が雑誌「現代」並びに週刊誌に根も葉もないスキャンダルを書いた。そのあと原島嵩は、兄に「あんなことをしてしまって。土下座して先生に謝れば許してもらえるだろうか」といっている。彼の偽りの証言は、その延長上の撹乱(かくらん)なのだ。それは本人が一番よく知っていることである。

 資料室から盗み出したメモを返した方がよいとある幹部がさとした時も「多摩川の河原で全部燃やした」と平然とうそぶいていた。

 一昨年秋、名誉会長の前で「先生は立派な方です。先生の大恩は、決して忘れません」といいながら、まもなく踵(きびす)を返したように反逆の言動を繰り返している。酒に溺れ、女性に軽蔑され、仲間からバカにされていた彼を、守りに守ったのは名誉会長だった。その名誉会長に怨嫉し、自らの非を名誉会長におおいかぶせようとしたのである。

 つねに自らの非をかくし、良き人々を陥れようとするエゴのかたまり。金にさえなれば何でもやる。また、つねに自分が一番偉いという所にいれば機嫌がよい原島。こうした彼の言動は、ただあきれるばかりで、悲哀さえ感じられる。我らは、こうした輩は相手にせず広布に堂々と邁進したい。

(56・11・15付)

スリカエの天才

哀れな原島の奇行

 私(本社記者)は驚いた。日達上人を信奉するがごとく見せかけ、その実は、猊下の御遷化のときに大酒を飲んで目をまっかにし「誰があんな葬儀に行くものか」と。現猊下の御登座の砌(みぎり)、猊下の悪口を名誉会長が言ったと陰謀を企て騒ぎたてた。現猊下は教学もなければ、まるで子供みたいだと言いふらしたこと――すべて原島ではないか。本社記者は皆、知っている。

 十五日の裁判にトコトコと入ってきた彼は、あろうことか“教学批判”。まがりなりにも彼は、教学部長ではなかったか。それが、今までの教学が全部まちがっていたかのように、妄想こうじて正義ぶった“ざんげ”の繰り返し。あたかも学会に誤りがあるかのごとく、自作自演する、彼一流のスリ替え。でなければ彼に皆ついていくはずではないか。

 武道館での本部総会で、飲みすぎて卒倒事件を起こしたさい、余りにも寛大な名誉会長に守られて、事無きを得たのに、名誉会長のことで心配したからであるとは、何と卑怯(ひきょう)卑劣極まりない人間か。この事件は何百人の人が知っている事実である。

 彼の証言についての矛盾点は一切の記録が明確に残っている。ここでは詳しく反論しないが、まったく事実の根拠のない、週刊誌向けの証言であることだけは、明確に言っておきたい。

 傍聴していたある記者の言。

「それにしても原島というのは、どういう人間なんだ。フスマの間から見るとどうだっただの、あるいは、隣の家の下着の洗濯物がどうだっただの、まるで、自分がノゾキしていたのを公言しているようなものではないか。こんな痴漢まがいの行為を平気でして恥じない男の言うことなど、それだけでいい加減なことが分かる」

 ともかく一事が万事、ある宴会で女性からヒジ鉄をくらったり、夜中に女性の家に行ったり、みだらなことをして信心に疑問をもたせたり、彼の邪心の奇行は数限りがない。それが分かることを恐れて、卑怯(ひきょう)にも全く不正なき潔ぺきな名誉会長の周りを邪推をめぐらしながら、スリ替えようとする魂胆であることは全職員が知っていることだ。その証拠に、多数の人が名誉会長のもとに夜も昼も出入りしているのに、彼一人だけがデタラメな話を作り論じていることで明確ではないか。朝から晩まで二六時中、陥れを内藤と山崎としていること、ご苦労様と言いたい。

        (56・11・29付)

 

「作り話」すべて崩れる

裁判官の厳しい尋問にメロメロ 

 月刊ペン裁判での原島の証言が二十九日の公判で一応終わった。

 証人に立つ前は、マスコミを使って“大物”ぶって、側近で、さも自分しか知らない新事実があるかのようにあおり立てた原島――。しかし、公判が進むうちに、自分でウワサを作り、見た、聞いたといっては、デッチ上げたことが次々と、そのメッキがはがされ、事実無根が明確になった。一事が万事で、そのあまりのデタラメな証言内容と品性の下劣さに、週刊誌記者も、だまされていたことが証明された。この日は、裁判官から原島に鋭い尋問があり、偽善者ぶったウソで固めた証人に“最後の審判”が下された。

 もともと、ありもしない名誉会長のスキャンダルをねつ造して話をつくってきた原島だから、裁判官や検察官から矛盾点を突かれれば、馬脚をあらわすのは当然といえば当然のこと。

 厳しい裁判官の尋問の連続に、終始、証言台の机の端を握りしめ、動転した心の動揺をかくす、この日の原島の態度。神聖な法廷の場をウソで汚し、正体を暴露された男の断末魔がだれの目にも明らかであった。

 とともに、今回の裁判官尋問により、彼のいうスキャンダル話が何一つ根拠もないことが次々と明白にされたことを明記しておこう。

 そのサワリの部分をいくつか紹介してみると――。

 裁判官いわく。「あなた(原島)はユカタに口紅がついていた云々といっているが、普通、ユカタには何か物がついていたとしても(ユカタにはいろいろな模様がついているので)、一見してもわからないものだが、その点、どうなんですか」と。

 とたんに原島「そういえば、たしかにおっしゃる通りですが……」としどろもどろ。

 裁判官はさらにつづけて追及。「あなたは、どうしてそうだというのですか。その根拠はなんですか」と。

 すると原島「上田さん(副会長)の話から判断した」と、今度は人に責任をなすりつける始末。どこまで卑劣なのか底知れない。

 しかし、裁判官の尋問は虚構の奥を突き刺すように、さらに鋭くつづく。「たとえそういう話があったとしても、当時のあなたの置かれた立場からして、そんな話はすぐに信じられなかったはずだ。むしろ、そんなことはない、と否定への方向に心が傾斜していくのが普通ではないですか」と。そこまでくると「それはそうなんですが…」と原島。答えに窮してしばし絶句。

 傍聴席からみても、彼の話のことごとくが、後からねつ造した、悪質な作りごとであることは、だれの目にも明らかだった。

 裁判官のとどめの一言がきいている。「要するに、あなたの話には、あなた自身の目撃事実というのは、ないんですね」と。

 ウソをみずから白状してしまうような、おそまつな一幕。裁判官の目はじつに鋭く、真実をすべて見破っているようだ。

 これで、彼が天性のウソつきで、すべてが妄想であったことが、白日の下にさらされてしまったわけである。

 それにしても主尋問だけでも約九時間も費やして結局、何一つ目撃事実がなかったという、この原島証言――彼はなんのために法廷に立ったのか、その動機の背景に“黒い意図”を感ずるのは記者一人ではあるまい。

                                 (57・2・2付)

 

正体暴かれた原島の虚構

動かぬ証拠にむなしい反発

 つくった話は、必ずボロが出て崩れる――これを如実に証明したのが、ペン裁判での原島証言だった。

 原島は、すでに報じた通り、この法廷で、数々のデタラメ証言を展開したが、何故、彼の証言がいい加減であったのか――いうまでもなく、事実無根の名誉会長のスキャンダルを、事実に仕立てようと工作したからだが、肝心の話を、全部、自分の、つくり上げた“記憶”を唯一の根拠に何年も前の話を仕立て上げれば、なんとかなると思ったからでもあった。

 原島は、すぐに真実らしそうに、昭和三十二年の正月とか、四十五年二月上旬とか、古い話を持ち出して、さも自分の話に根拠があるかのように証言した。

 ところが、裁判官から「あなたは、そんな古いことを何故に、はっきり記憶しているのか。その根拠となるメモなり、記録があるのか」と、ただされた。

 これに対し、原島は「メモをしているわけではない。ただ鮮明に記憶しているだけです」と、なんら客観的な資料も裏付けもないことを白状した。

 たとえば、原島の証言で、一番重要な部分である上田副会長との昭和四十五年二月上旬の箱根研修所での会話の件など、その典型であった。

 そもそも、上田副会長は、原島と、彼のいうような会話など全くしていないことは、幾つもの動かし得ない裏づけで明らかとなっているが、まず、検察官から二月上旬という日程はいつかが問いただされた。

 これに対し、原島は「いつかは分からない。ただ上旬という記憶は間違いない」の一点張り。

 そこで検察官から、原島の証言内容から吟味して、当時、原島と一緒に行動していた上田副会長、桐村教学部長の当時、記録した“メモ”、及び、名誉会長の行動を当時克明に記録したノートが証拠書類として提出された。

 それらによると、原島の証言内容からいって、その二月上旬とは、いずれも「二月十一日」と判明。

 ところが、原島は、こうした動かせぬ資料に対しても「自分の記憶と違う」「その資料は、後から作ったもので信用できない」などと、誰かに知恵をつけられたのか、見えすいた言い逃れに終始。証拠資料が当時のものか、後から作られたものか、鑑定すれば、おのずから明らかになる。

 では、その唯一の根拠たるべき彼の記憶によれば「二月上旬とは具体的にいつのことか」と検察官に聞かれると「それは分からない」という始末――これで結局、この話もつくった話であり、上田副会長との会話もなかったことが明白になってしまったわけだが、日付を確定されると、彼の証言が根底から崩れるため、必死に逃げていたことは、誰の目にも明らかだった。

 もし「二月十一日」と確定すれば、彼は、上田副会長と話したという「その日の午後」には、箱根にはいず、東京にいたことが当時の聖教新聞等で明白になってしまうからであった。

 一事が万事、具体的な証拠書類を示されると頭から否定し、自分の記憶だけが正しいと言い張る妄想癖の原島。今まで売りまくった週刊誌へのデッチ上げに困って、言い張ったのか、とは傍聴席のある記者の弁。そんな見えすいた“作り話”で裁判所をだませるとでも考えたのだろうか。

 だから、世間知らずの精神的未熟児といわれるのである。

            (57・2・4付)

 

暴かれた原島転落の実態

奇行と悪行でみずから墓穴

 ペン裁判(一月十九日)では、検察官から、これまで虚言を弄してきた原島の証言そのものの信ぴょう性を弾劾するため、彼の人格、性格についても、具体的な事実を挙げて尋問された。

 その結果、これまで原島は“正義の告発者”ぶって学会から退会したかのごとく語っていたが、それはもとよりみせかけだけで、彼の醜い野心と信心の転落がその実態であることが浮き彫りに――。

 検察官ただしていわく。「各地に指導に行った先で、酒を飲んで他人に不愉快な思いや迷惑をかけたことはないか」と。

 原島は「信仰上の指導者としてふさわしくない言動が多々あったと思う」と、顔をしかめた。

 そこで検察官が、厳正な捜査に基づき具体的に追及。「鳥取県に行って酒を飲み、ある婦人から、いい指輪だから来世に結婚する約束だといって指輪を持ち帰ったのではないか」「栃木県の幹部の家に泊まり、酒を飲んで、婦人に言い寄るなどの迷惑をかけたことはないか」「台東区内の会場で、素っ裸で人の前に出てビールをガブ飲みしたことはないか」等々、原島の酒グセの悪さ、奇行を具体的に指摘。

 原島は、表情をこわばらせながら、いずれも「記憶にございません」などと逃げの一手。しかし「(酒グセは)あまりいいほうではない」と、結局は、自分の酒グセの悪さを認めざるを得ない結果に。

 さらに検察官から「お酒について、池田氏(名誉会長)から注意を受け、今後、単独で地方に行くなと厳しく戒められたのではないか」、また「酒を飲み歩くことで学会幹部から信頼を失い、後輩に追い抜かれていったのではないか」と、原島が自ら信仰の節度を失っていき、やがて優秀でまじめな後輩にぐんぐん抜かれたために、それを逆うらみしたことをも指摘された。

 また検察官は「昭和五十二年十月、山崎正友と銀座のクラブに飲みに行き、その後、池田氏から二人で飲み歩くのは慎め、と注意を受けたか」と。原島は「ございます」と認めた。

 そして検察官が「山崎の家に行って、奥さんが一人でいる時、酔っぱらって上がりこんだことがあるのではないか」と、尋問した。原島は「記憶にありません」と必死に逃げようとしていたが、その実、緊張して頬(ほお)をピクピクさせ、ろうばいした様子がありありだった、と傍聴席のある記者が語っていた。

 こうした山崎との関係を前提に尋問は核心に迫っていく。

 ついに原島は、昭和五十四年九月、聖教本社から資料を持ち出し、山崎のもとにあずけた、山崎から二十万、また山崎を通してある僧侶から一千万の金を受け取っていた、ことなど次々と認めていった。

 山崎に女性関係のことで弱みをにぎられ、酒づけ、金縛りにされ、信心を破壊していったのはすでに周知の事実。最近、出版された原島をモデルにした小説「破滅」のなかでも、その転落ぶりが描かれているのは有名な話。はからずもその一端がペン裁判で鋭く暴かれた一幕ではあった。

 原島は今、檀徒の大謗法新聞「継命」で嘱託として勤め、毎月二十万円もらっているという。彼が「継命」でネタをつくり、週刊誌をあおり立てているとは、まことに哀れな存在である。

(57・2・6付)

 

事実無根いよいよ明らか

山崎がやぶれかぶれの証言に終始

 月刊ペン裁判が二十五日、開かれた。被告人・隈部側の証人である山崎正友は、自分の裁判もいよいよ窮地に追いつめられてか、やぶれかぶれの証言に終始した。その作り話も、よほどの下劣な品性でなければできない内容で、誰から聞いたとか、また研修所では女性と風呂に入ったとか、あることないことをみさかいもなく、とうとうと週刊誌向けにぶちあげようとした。

 まことにうまく作っているようだが、誰が聞いても原島と打ち合わせしたことはアリアリ。見てはいけないものを見たとか、前回の原島と同じことをいっている。

 ところがこの日の公判で、検察官の鋭い尋問により、山崎のデタラメ話が次々と突き崩されていった。

 この日、検察官から重要証拠として一通の報告書が法廷に提出された。山崎自筆の報告書であることは、彼自身、法廷で認めた。

 この報告書は、昭和五十一年三月九日付で、山崎が北條理事長(当時)に提出したもの。内容は当時起こった月刊ペン問題について調査分析した結果と今後の処理方針に関するもので、ペン問題に対する山崎の認識を浮き彫りにしている。

 五十一年三月といえば、問題になっている「月刊ペン」四月号が発売された直後のこと。山崎はその報告書のなかで、“ペン”対策についてこう書いている。

 「今回の記事内容は非常に悪質であり、放置しておくと、今後よくありません。以後、かかる種類の中傷を絶つため、断固たる処置をとるべきだと考えます」

 「基本的には、名誉、信用棄損罪で告訴するとともに、謝罪広告、損害賠償を求める民事訴訟をおこす方針でのぞみたいと考えます」

 山崎は、これまでの証言で、スキャンダルは事実なので、告訴して裁判にもちこむのは難しいと当時考えていた、と語っていたが、これは真っ赤なウソ。山崎本人が「断固、告訴すべし」と言っていたことは、この報告書で明らかになった。

 また山崎は、報告書のなかで「問題なく名誉棄損が成り立つと思われる部分――池田会長の女性関係についての事実無根の中傷」と断定していた。

 つまり、山崎が、当時からペン事件について、弁護士の立場で「問題なく名誉棄損は成立する」と認識していたことは明々白々。

 ところが山崎は、これまでペン裁判において、スキャンダルは誰もが知っており、マスコミにも公然と知れわたっていた、とウソの証言をしていた。

 そこで、検察官がただしていわく。「あなたがいうように、それほど事実が知れわたっているというのなら、なぜ報告書に“スキャンダルは事実無根”と書いたのか」「あなたは、マスコミに知れわたっていたというが、その点は弁護士としてどう対応したのか」と鋭く追及。

 それらの尋問に根拠のない弁解ばかり。山崎は苦しまぎれのいい逃れに躍起になっていたが、こうした山崎の自語相違、その場のがれのたわ言に、あいた口がふさがらないとは傍聴席の記者の弁。

 一事が万事、すべてが作り話であったことが、自分の書いた報告書を検察官に突きつけられ、露呈した。

 潔ぺきな名誉会長に、もともとスキャンダルなどないことは、天下周知の事実。山崎、原島、内藤らの悪人達が、名誉会長を陥れようと、奸計をめぐらし、ねつ造したデタラメ話であることが、一層明らかになった。

 今回の公判で、山崎が、当時、自ら作成した詳細な報告書によって、とりかえしのつかない墓穴を掘ったのである。山崎の策略とウソを裁判所は鋭く見破ったに違いない。さて、次回はまた、どのような言い逃れを用意してくるか、けだしみものである。

                (57・2・28付)

 

山崎、自らの謀略認める

弁護士登録抹消の真相明らかに

 ペン裁判(二十五日)は、隈部側の証人として出廷した山崎正友の悪事を裁く場となった。前回に続いて、山崎の陰険な謀略が暴かれていく姿を紹介してみると――。

 山崎は、昭和五十六年四月、刑事被告人として恐かつ事件裁判の初公判が始まる直前、自ら弁護士登録を抹消する手続きをとっていた。弁護士業務を放棄したわけである。

 検察官が、その理由を問いただしたところ、山崎は「自らの信仰を貫くため、弁護士としてふさわしくない言動があったから」と、ぬけぬけと弁明。

 更に検察官は、五十五年七月、学会から東京弁護士会に山崎の懲戒請求が出されていることを明らかにして、その懲戒請求書と証拠書類を提出した。

 その証拠書類は、山崎が当時学会の顧問弁護士の立場にありながら、学会を相手に訴訟を起こすよう檀徒を扇動、自らの特別財務金返還訴訟の訴状の下書き、並びに檀徒の代表が恥知らずにも記者会見で読み上げた「声明文」のそれぞれ自筆原稿であった。

 検察官は、その書類を山崎に提示しつつ「あなた自身が書いたものか」と尋問。

 山崎は、ブ然とした表情で「いずれも私が書いたもの」と認めざるをえなかった。

 山崎は、はからずも、裁判の場で自らの謀略を初めて認めざるをえないハメに。

すでに山崎は、自ら弁護士登録を抹消する以前から、弁護士として依頼者を裏切った行為、シーホースを実質的に経営するなど、弁護士法違反の疑いで、東京弁護士会に出頭。二度、三度と事情聴取されていたことが明らかになった。

 山崎は、その動機について「正しい信心を貫くため、学会を裏切ったのである」と。

 とんでもない大ウソつきだ。以前から、まじめに勤行している姿を見たこともない、ということは大勢の人達が断言している。

 ぬけぬけと“正しい信心”云々とは、真っ赤なウソ。自らの私利私欲のため、信心を破壊し、宗門を利用し、檀徒をだまし抜いてきた希代の悪党ではないか。

 ところで、このような山崎も、今では彼のウソも明確になって、誰からも信用されなくなった焦りからか、追いつめられた人間の悪あがきが一層目立ちはじめている。

 ペン裁判でのねつ造話が、その最たる例だが、ウソの上塗りでは、ますます窮地に陥ることは明らか。

 そういえば、最近、週刊新潮に山崎が手記を書いているが、その見出しがふるっている。「もう嘘は書けない」というもの。

 これでは、これまで山崎が週刊誌に書いてきたことはウソばかりであったことを逆に証明しているようなもの。その意味では、今後の新潮の手記などはさしずめ゛最後の嘘"のダイジェスト版とでもいおうか。

 裁判が進むにつれ、山崎の謀略、悪事、ウソが次々と暴かれていく。いかなる策も通らない。信心とは厳しいものだ。国法では犯罪者として裁かれ、仏法のうえから大罰を受けるのは当然である。

                         (57・3・1付)

 

あわてる山崎と原島

――崩れる“デタラメ証言”に悪あがき

 ペン裁判では、原島や山崎が、週刊誌向けにデッチ上げのデタラメ証言を続けてきたが、裁判官、検察官による鋭い尋問により彼らの卑劣な作り話が次々と崩されていることは、天下周知の事実。

 ところが、檀徒の新聞「継命」だけは、負け惜しみの強がり一本の記事を掲載し、失笑をかっている。同紙三月一日号では“学会、原島証言を崩せず”というお粗末な記事を掲載。「継命」から毎月二十万もらっている原島が、自らのデタラメ証言を崩されたため、あわてて山崎らと邪智をふりしぼって書いたものであることは容易に推測できる。

 その奇妙な記事によると――いわく「原島の証言の終わりに、弁護人が『赤いものが、インクか血ではないかとの心証をもっているとしたら、そうでないことを立証するため、補充尋問したい』と申し出たのに対し、裁判所は、補充尋問の必要性を認めなかった。

 一生懸命な証言を、裁判所がおろそかに聞くはずがない」(取意)というのである。

 しかしこれは、全くナンセンスな記事である。事実はどうだったかといえば、ペン裁判で、原島が約九時間にわたり、品性下劣な虚言を弄してきたが、結局、見たとか聞いたとかのことが次々とあいまいになり、最後に、裁判官が「要するに、あなたの話には、あなた自身の目撃事実というものは、ないんですね」とただしたのである。

 つまり原島の証言に何らかの信ぴょう性を認めないとともに、真実性の立証に意味のない話であることを見破ったに違いない。だからこそ「赤いものがついていた云々」についての補充尋問も、それ以上の必要は認めなかったと思われる。

 そのことは、原島の証言の終わりに、顔色を変えて補充尋問を求めた弁護人のあわてぶりからもよく分かったとは、傍聴席の声。

 この山崎と原島。最近、六本木の高級レストランで飲食を共にしているのを、たまたま学会員が見ている。また乃木坂の店でも、道に面した窓側の席でこれみよがしに飲んでいる二人を、目撃した人もいる。

 これまでの証言や手記等でも、誰から聞いたとか、公然のうわさであるとか、共に打ち合わせてはスキャンダル話をデッチ上げてきた山崎と原島のこと。ねつ造の証言が法廷で次々と崩されていく今、またまた週刊誌向けの密談を交わしていたのだろう。

 “人を判断するのに、その言葉でなく外形を見よ”とある哲学者は言った。口ではもっともなようなことを装えるが、外形、外にあらわれた姿、行動はごまかすことはできないとの箴言(しんげん)だ。

 その意味でこの二人に共通することがある。彼らは口では“正しい信仰”とかいっている。ところが山崎を知る者の間では、彼が家にも帰らず、夜な夜な遊び回っていた破れん恥な生活ぶりであったことはよく知られている。

 原島も“離婚する。お手伝いさんと結婚する”とかの子供じみた言動で周囲の人々に迷惑をかけてきたことは周知の事実。信仰は人の姿に、家庭にあらわれてくるもの。口でいくら装っても、二人の外形を知れば知るほどあいた口がふさがらない。

                   (57・3・7付)

 

山崎の作り話、全て崩れる

検察官より動かぬ証拠に

 山崎正友の悪徳ぶりと、デタラメな作り話や証言は、日に日に明るみに出てきているが、十二日に開かれたペン裁判においても、山崎の悪質な嘘が完全に暴かれた。

 前回(二月二十五日)の反対尋問の時にも「池田会長の女性問題は事実無根」と、山崎自身が書いた五十一年三月九日付の報告書でタジタジになった山崎だが、この日の公判でも、検察官から、厳正な捜査にもとづく動かぬ証拠を突きつけられ、ボロが続出。彼のデタラメ話はすべて崩れてしまった。

 この日のハイライトは、山崎の作り話の最も中心部分である昭和四十五年四月下旬、箱根研修所でのことに関する検察官の鋭い尋問だった。

 この四十五年四月下旬というのは、原島もこの裁判でウソを述べていたのだが、山崎もこれに口裏を合わせて、総会の原稿検討のため箱根研修所に呼ばれ、その翌日午前、池田会長の部屋に呼ばれた時、原島と一緒に“赤いもの”を見たという全く偽りの証言をしていた。

 検察官が「四月下旬というが、日にちは特定できるか」と質問。

 山崎は「十九日か二十六日の日曜日だったと思うが、明確におぼえていない」と。

 日付が確定されると、彼のウソがばれてしまうことを、彼自身が一番よく知っているのだ。

 そこで、検察官は、昭和四十五年当時の山崎自身の手帳を突きつけて「この手帳の四月十九日欄に『ハコネ』と記載されているが、おぼえがあるか」と追及した。

 山崎は思わぬ自分の手帳を示されて、一瞬ギクリとしたが「この手帳は私のもの。書かれている字も自分の字だ」と認めざるを得ず、結局、山崎が箱根に行った日が「四月十九日」と確定した。

 次に、検察官が「するとあなたが“赤いもの”を見たというのは翌日の四月二十日ですね」と確認したあと「あなたは箱根に泊まったのではなく、他の弁護士らとともにマイクロバスで東京に帰ったのではないか」と尋問。

 これに対し山崎は「イヤ、箱根に泊まった」と言い張った。

 そこで検察官は、山崎自身のかつての法律事務所に保管されていた「昭和四十五年の領収書綴」を示した。これは、山崎の各種経費の領収書を当時、彼の事務所に勤めていた経理担当の女性がつづっていたもの。その「領収書綴」になかには、山崎が箱根に泊まったといっている四月十九日付の旅館「花汀」という請求書があったのだ。

 この「花汀」は、麻雀好きの山崎が、四十五年当時からよく利用していた東京神田の旅館である。山崎自身、ここを何十回となく麻雀で利用していたことを認めていた。

 検察官が、その四月十九日付「花汀」請求書を示し「あなたは、十九日夜、神田の『花汀』で友人と麻雀していたのではないか」と鋭く尋問。

 山崎は、その請求書を見せられ一瞬、虚をつかれたように目を白黒、しばし絶句。ようやく「これは自分で使用したかどうか分からない」と逃げるのがやっとだった。

 しかし、当時、山崎の事務所にあって、麻雀などの伝票を「交際費」の経費として計上できたのは、山崎以外にないことは関係者の一致するところ。山崎は、実際には東京で麻雀をしていながら箱根に泊まっていたなどとウソの証言をしていたことが、はからずもこの自分自身の残した証拠書類で露呈してしまったわけである。

 この一点だけを見ても今までの週刊誌をはじめ最近の彼の手記等が誰も信用するものがないとはいえ、すべて作り話であったことが明白となった。

 それにしても、手帳といい、領収書綴といい、いずれも自分の残した資料が、自分の嘘を証明することになった山崎。かつては学会の資料を原島と盗み出して、学会を攻撃した罪が、厳正な法廷でかくまであらわれてくるとは、なんたる皮肉な因果であろうか。

 嘘はどこまでいっても嘘。厳正な法廷では、そんな虚構が通ずるわけがないことを、余りにも象徴的に示したペン裁判であった。

              (57・3・16付)

 

つじつま合わぬ山崎の嘘

インチキ証言、次々と明るみに

 月刊ペン裁判(十二日)では、山崎のウソが、検察官の追及によって次々と崩されていく。

 山崎は、先の弁護人による主尋問で、昭和五十一年当時、月刊ペンが発行された直後、学会では問題とされる恐れのある女性を、急きょ、転居させて世間の目をゴマかそうとしていた、などとヌケヌケと話していた。

 これもすべて原島らと工作し、うまく作ったつもりであろうが、結婚すればだれだって主人の勤めている先に行くのが全く自然なことである。

 この日の公判では、山崎は検察官からこの点を鋭く追及されるのを予知してか、自ら裁判官に発言を求め「東海研修所の女性職員が、結婚、移転した時期については私の記憶間違い。昭和四十七年から四十九年にかけてのこと」と、自分の証言の誤りを認めて訂正した。

 偽証逃れの訂正は明らかだが、こう訂正すると、彼が主張した世間の目をごまかすための転居など全くなかったことが明白になった。

 そこで、裁判官が「では、その女性職員の話は月刊ペンの記事やその告訴とは全く関係ないことですね。それでは、あなたの言うところの学会が行ったという女性への対策とか工作は具体的にはどういうことなのですか」とただした。

 山崎からは、もちろん、なんら具体的な話などでようはずがない。利用できるものがあれば、他人の結婚でもなんでも使って疑惑を仕立て上げる冷血漢。単なるウソということではすまされぬ重大な人権問題といわねばならない。

 また、山崎は、さきに加住研修所で女性と風呂に入っていたなど、俗悪週刊誌向けの彼一流の下品な作り話をヌケヌケとしゃべっていたが、これも真っ赤なウソ。

 もともと山崎は、ペン裁判の冒頭で「私には目撃事実はない」と証言しているのである。これも後で口からでまかせに作った話であることは明瞭だ。検察官から、その矛盾を追及されて、なんら具体的に答えることができなかったのも当然のことだ。

 だいいち、いつの日かと聞かれても、ただ昭和四十九年ごろというだけで、月日はあげられない。揚げ句の果ては、古い話なので憶えていないの連発。しかし一方では、これよりも古い四十五年については、四月下旬とかなり具体的に述べているのだから、だれがみても意図はミエミエ。

 検察官が、さらに具体的に風呂場のガラスについて追及しようとすると、さすがに裁判官も「もう、それ以上はいいですよ」と、全く、この話を問題にしていなかった。

 さらに、昭和四十七年十一月一日の件。原島はこの日夜、上田副会長から悩みを打ち明けられたと、偽りの証言をして、先の公判(一月二十九日)で、検察官、裁判官から厳しく問い詰められ、ウソがバレてしまっていた。

 今回の公判で、その裏付けが一段と浮き彫りにされた。実は、この日夜、上田副会長とあったなどとは真っ赤な嘘で、原島は山崎と一緒に六本木で酒食し、酔いつぶれていたのである。

 この点につき、検察官は、四十七年の山崎の「領収書綴」の中にある六本木のレストランの十一月一日付領収書を突きつけ追及。その都度、山崎は苦しい言い訳に終始しタジタジの様相で、明確に否定できなかった。

 さらに、山崎が総会当日についても「原島は前夜、ボトル一本あけたので倒れたのだ。これは俺しか知らない」と意味ありげに周囲の人に語っていたのを聞いた人もおり、また、その数日後、銀座のクラブで「原島は、本当は六本木で飲みすぎたんだ」とも聞いた証言もある。

 山崎、原島が、見たとか聞いたとか、卑劣な作り話を、こともあろうに厳正な法廷で無責任にしゃべり、さんざん週刊誌で騒ぎたててきたが、いくら彼らがウソつきの天才でも、いつまでも真実をおおい隠せるものではない。

 当然のことながら馬脚をあらわし、彼らのウソなど誰も信用する人はいない。彼らの、悪党を通り越して悪魔のねたみ狂った姿は、万人の目に明らかである。

  (57・3・17付)

 

証拠写真に思わずガク然

山崎、デタラメな証言を自ら暴露

 一つの嘘をとおすために別の嘘を二十発明せねばならない――とは有名なことわざであるが、月刊ペン裁判での山崎の証言のデタラメぶりは、そのことを典型的に示していた。

 たとえば、山崎は@昭和五十一年三月四日に東海研修所に呼ばれたA池田会長はペンの記事を知り元気がなかったBそのため会長は、会食への出席を急にとりやめた等々と、とくとくとしてしゃべっていた。

 いうまでもなく真っ赤な嘘である。検察官から、五十一年の山崎自身の手帳がつきつけられ「この手帳には『六日午前十時東海へ出発』との記載があるが間違いないか」と追及され、山崎は慌てて訂正。東海研修所に行ったのは「六日」であると認めざるをえなかった。

 そこで検察官は、当時、本紙カメラマンが撮った十枚の写真を証拠として示した。いずれも、三月六日の東海研修所で行われた牧口園の開園式をはじめとする一連の行事に、当時、池田会長が、北條理事長、秋谷副会長らと元気に出席し、参加者も喜びに沸きかえっている写真ばかり。この中の数枚は本紙にも掲載されたものだが、この写真の中には、山崎が、会長は出なかったと言っている会食会にも、池田会長が厳然と出席し、激励している写真があった。しかも、その中に、山崎の顔も写っていた。

 検察官が、その証拠写真を突きつけ「会長と同じテーブルで会食しているのはあなたではないか」と鋭く追及。

 山崎は、顔をひきつらせながら「確かに、私です」と認めた。

 かくして、ここでも山崎のニセ証言は、自らの手帳と証拠写真でもろくも崩れてしまった。

 見たという話がデタラメなら、聞いたということもインチキばかり。

 また山崎は、昭和四十一、二年ごろ、学会内に女性関係の噂が流れ、種々のエピソードがあったと語っていたが、今回の公判で、裁判官、検察官から、その具体的な「エピソードは何か」と聞かれても、結局、何も出せなかった。実は山崎、前回、エピソードはたくさんあるので、この日までにまとめてくるといっていたのだ。それは、原島、山崎の女性関係のエピソードばかりではなかったのか、とは彼らを知る人の失笑である。

 一事が万事、いかに山崎や原島が、自分達でうまくデッチ上げの話を作ったように思い込んでいても、検察官の反対尋問、裁判官の尋問によって、嫉妬の仮面が一つ一つはぎとられてしまった。

 とともに、問題になっている「月刊ペン」の記事そのものが、いかに根も葉もない悪意にもとづいたデタラメな中傷誹謗記事であったか、ますます彼らの“証言”で明白になった。

 これでは隈部側は何のために、彼らを出したのか、とは傍聴者の弁。証人は、このあと、三人組のもう一人の内藤国夫が出廷の予定と聞くが、原島、山崎が嘘を重ねて散ったあと、また、どんなピエロの役を演ずるのであろうか。

(57・3・18付)

 

相手かまわぬ言論暴力

エゴと功名心の・内藤国夫

 今やブラックジャーナリストに転落した内藤国夫だが、彼は山崎、原島からの卑劣で悪意にもとづくデッチ上げの情報を使って、事実無根のことを平気で書いてきた。内藤は、いまだに刑事被告人・山崎を“わが友”として頼り、一方的に学会の誹謗記事を書いて飯のタネにしているが、その愚かさと異常性についてマスコミ界からも厳しい指弾が飛んでいる。

 最近、この内藤の正体を暴いた「花形記者は転んだ」(幸洋出版)という本が出版された。これは「現代の眼」編集長の丸山実氏とフリーライターの坂口義弘氏が著したもの。内容は「内藤国夫の実像と虚像」「あえて問う内藤スキャンダル」「哲学のない甘っちょろい正義」「仕掛人に躍らされたピエロ」等々、いかにも正義派ぶった内藤の陰湿な素顔を浮き彫りにしている。

 それによると、内藤は、毎日新聞の記者時代から、社内の評判はすこぶる悪かったという。同僚の記者が「(内藤は)記者としてよりも以前に人間として問題があった」と指摘するように、彼のシンパはまったくといっていいほどなく、自分だけがよしとする身勝手さは皆に嫌われていた、というのだ。

 事実、内藤が毎日新聞社を退社する際も、社内外から“内藤を守れ”の声は皆無に近かった。

 このあたりの事情は「花形記者は転んだ」に詳しい。その一端を紹介すると――。

 「内藤はとんでもない奴だ。……言わないことを言ったという、そのことだけでもオレはあいつを名誉棄損で訴えることだってできる! あちこちに虚実を織り混ぜて書いているが、虚実の虚が多いんだ!」(毎日のH記者)。

 「毎日新聞社の生命にかかわるような事柄を、確証もなしに書いてしまった。……ジャーナリストの禁を犯してしまった」(当時の毎日新聞秘書室長)等々。

 内藤の特徴は、学会に関する中傷記事でも明らかのように、確証のないまま噂話を活字にして、それで人をキズつけたとしても、相手の人権や名誉を何とも思わぬ卑劣な男である。まさに、それは“ペンの暴力”だ。

 同書では「内藤ジャーナリズムは、かつてナチスが用いた戦時宣伝学の現代版といっても過言ではないだろう」(丸山氏)、「モラルもヘったくれもなくエゴイズムと功名心にこり固まっていて、真実を語る謙虚さと勇気を持たない人」(坂口氏)と、ジャーナリスト失格を宣告している。

 内藤は、山崎正友、「週刊文春」編集者と、何回となく銀座のクラブで酒を汲み交わしては反学会キャンペーンの密談をしていたという。「宗教の知識は全然ない」と自他共に認めて余りある宗教無恥の内藤に、宗教のことを論ずる資格は全くない。まして創価学会のことを世に評論することなど、最初から無理だったのだ。

 学会の批判記事を書けば、自己の売名になると思ったのだろうか、山崎や原島からのデタラメな情報だけを頼りに、学会、名誉会長を陥れるためのスキャンダルしか書かないブラックジャーナリストの内藤。何らの真実性もないひとりよがりなこじつけ記事など誰も信用するわけがない。まさに「仕掛人に躍らされたピエロ」そのものである。

 このほか、同書を一読すると「内藤の異常な金銭感覚」「深入りしすぎたある女生徒の告白」など、金に汚く、女性にだらしない内藤の素顔が浮かび上がってくる。

 それにしても、山崎、原島といい、内藤までもが共通して醜悪な人格であるとは恐れ入る。事実無根のスキャンダルをデッチ上げる裏には、彼らに相通ずる“卑劣な人間性と魂胆”がうごめいているのだ。

                    (57・3・21付)

 

悪あがきの片棒をかつぐ週刊誌

スキャンダルは山崎、原島自身の投影

 ウソつきの天才・山崎、原島の悪らつな魂胆は、もろくも崩れ去った――月刊ペン裁判で、彼らは、十数時間にわたって、学会、名誉会長を陥れるために虚言を弄してきたが。結局、すべて卑劣な作り話であることが証言を通して鮮明に浮かび上がっていった。

 一部の週刊誌、雑誌は、裁判の自分達に都合のいい証言、つまり彼らのデッチ上げ話だけをとらえ、あたかも“真実”であるかのごとく騒ぎたててきた。しかし、山崎、原島のデタラメな証言が、裁判官、検察官の鋭い尋問により根底から崩壊しても、その事実は一行たりとも書かない。

 最近「スクープ」という、潔ぺきな人間を無実の罪に陥れたジャーナリストのモラルを問う映画が反響を呼んでいるが、一部の編集者も、根も葉もないスキャンダルをデッチ上げる゛活字の暴力"の恐ろしさを厳しく反省すべきであろう。

 たとえば、ある俗悪週刊誌に、某中年女性(退転者)が、品性下劣な話をしゃべっている記事が載っていたが、全くデタラメばかり。それも二十年前のことである。

 編集者は、記事を掲載する前にその女性の素性を少しでも調べたのだろうか。彼女は、信心を利用し、学会員をだましては金銭を借りたまま、返さないといういわくつきの女性。昭和三十八年に、役職解任、学会除名になっている。

 こうした妬みに狂った女性の言を一方的に掲載する編集者のモラルと編集姿勢は、言論の自由を自ら冒とくする行為にほかならない。

 スキャンダル、スキャンダルといっているが、関係者に仕立て上げられた人達は、みんな幸せで、りっぱな家庭を築き、多くの人達からも信頼と尊敬を集めている家庭ばかりである。

 一方、スキャンダルだと騒いでいる側の私生活といえば、山崎、原島をはじめ、この中年女性にいたるまで、たえず、離婚話や乱れた男女関係が、事実のうえで指摘されている徒輩ばかり。結局、自分達のすさんだ家庭のひがみを、うらみがましく妬んで作り上げたものであることは誰の目にも明らかである。

 だいたいスキャンダルといっているが、なにか少しでも事実があれば双方の間にトラブルが起こってくるはずである。しかし、関係者には、全くこのようなことはへんりんだにもなかったではないか。名誉会長に関しては、そんなばかげた話もなく、事実も全くないし、この二十年間にも、そういうことはなにもなかった。それなのに、突如、山崎、原島らが反逆した一昨年あたりから、出てきたというところに、そのすべての意図は明白であり、明らかにデッチ上げの話なのである。

 信心が破壊された山崎、原島をはじめ退転者達は、名誉会長の厳然たる指導のもと、秋谷会長を中心に微動だにしない団結で前進する学会に向かって、妬み狂って悪あがきしているにすぎない。なんとか騒ぎを大きくすることによって、自分達の存在を社会から忘れ去られまいとする、彼らの卑しい魂胆はミエミエである。

         (57・3・28付)

 

悪意の噂だけ頼りの内藤国夫

支離滅裂な“証言”に終始

 去る二十二日、大阪で「関西青年平和文化祭」が晴れやかに開催された。十万人の青年達の熱こもる演技の数々に、出席した五千五百人の来賓は、絶賛の拍手を送り続け“ここに未来を担う青年を見た”と、感嘆の声を惜しまなかった。 

 あるマスコミ人は、談たまたま内藤国夫にふれて「なぜ彼は、この学会の真実の姿を見ようとしないのか。風聞や噂(うわさ)だけを意図的に書きたてる姿は、マスコミの常識では到底、考えることのできるものではない。全くあきれはてる」と。更に、素晴らしい学会の歩みを、まともに見ずに、悪意をもって一方的に書く内藤は、すでに言論人として致命的な欠陥を犯している、とも。

 二十六日には、月刊ペン裁判が東京地裁で開かれた。被告人側の証人として出た内藤国夫は、支離滅裂な証言に終始。内藤は、彼自身がこれまで俗悪週刊誌・雑誌に書いてきた“作り話”をぬけぬけとしゃべり、だれそれの子どもが他人の子であるとか、ないとか人権侵害もはなはなだしい虚言を弄していた。

 それについて弁護人が「女性問題の記事を書く際に、何か事実確認でもしたのか」と質問。

 ところが内藤は「本来なら事実について確認するべきであろうが、この点に関して、私は当事者を取材したり、確認はしていない」と自ら認め、推測と伝聞による事実無根の話であることを暴露してしまった。

 そして内藤は、女性問題について、ある情報提供者から聞かされたので間違いないと思った、というおよそジャーナリストとしては信じられない言をはき、全く根拠のない作り話ばかりを一方的に書いていたことを自ら明らかにした。

 こともあろうに、神聖な法廷で、他人のプライバシーや基本的人権の侵害にかかわる重大なことについて、なんら事実確認もせず、根拠のない話だけを頼りにデタラメな話をするに至っては、言語道断。ジャーナリストとしてよりも以前に人間として、その人権感覚のない常軌を逸した言動は断じて許されまい。

 先の山崎裁判(二月九日)でも、内藤は、中傷記事の情報提供者が山崎正友であると認めていたように、彼の情報源は、山崎、原島、正信会悪侶、退転者達であることは明らか。学会、名誉会長を陥れようとする黒い意図をもった徒輩の“手作り話”だけを鵜のみにし、関係者に確認もせず、話のウラもとらずに、一方的に書いたり、しゃべったりしていたことは周知の事実。事実無根のスキャンダルを平気で書いて、関係者の人権を侵害する行為は、まさに言論の暴力以外のなにものでもない。だから、マスコミ関係者から、ジャーナリスト失格と宣告されるのも当然である。

 この内藤、自ら書いたり、しゃべったりしてきたことが、いっさい真っ赤なウソであることが暴かれたとき、当事者やその関係者にどう責任をとるのか、厳しく見守らねばなるまい。

                               (57・3・30付)

 

卑しい内藤国夫の素顔

彼自身の醜聞が次々と明るみに

 最近、ある出版社に勤務する友人と会った。その友人云く。「内藤国夫はもうダメだよ。誰も信用していない。だから、彼に書かせても売れないと、仲間うちでは言っている」と。そして「出版関係者の間でも内藤の素顔を暴いた『花形記者は転んだ』が話題になっている」とも。

 内藤の堕落ぶりは、前回の月刊ペン裁判(三月二十六日)のデタラメな証言でも、いっそう浮き彫りにされた。彼自身、全く当事者への確認取材もせず、山崎らの“作り話”をそのまま書いていたことを、自ら認めていた。

 一昨年八月、毎日新聞秘書室長(当時)の岩見隆夫氏が「内藤君には活字で料理される側に対する配慮が欠けているようだ。一度活字にされたら、それが間違いでもきれいに消し去ることは不可能に近い。ぬれぎぬ判決なら、再審請求の道も残されているが、活字はもっと威圧的で問答無用である。それだけに、活字で生きる私たちは臆病で『記者のモラル』に忠実でなければならない」(「新聞之新聞」)と、指弾していた。

 また同じ頃、毎日新聞主筆(当時)の山内大介氏も、同社社報のなかで「内藤君の原稿にみられる欠陥の第一は、全体的に品位に欠けるだけでなく、名誉棄損になりかねない個所を含んでいることだ。(中略)

 女性スキャンダルの部分は、とても正確を期したとは言い難く、名誉も尊重されていない。しかも『弁明の機会』も与えていない。これは一歩間違うと『ペンの暴力』に陥るおそれをはらんでいる。(内藤君の)記事には、女性側から取材した形跡がなく、記者として手ぬきが目立つ」(「文化通信」)と、厳しく批判していた。

 まさに、岩見氏、山内氏の指摘通り、内藤は「記者のモラル」をかなぐり捨てというか、持ちあわせていなかったというべきか、山崎、原島らと一緒になって反学会キャンペーンの張本人になり下がってしまった。

 彼の背後関係に、何やらウサン臭いものを感じるが、堕落の要因には、どうやら彼自身の、卑しい人間性にもあるようだ。「花形記者は転んだ」によると、内藤は、毎日新聞の記者時代から醜聞に事欠かなかったという。

 たとえば、内藤の異常な金銭感覚について、同書では「都庁クラブ詰め(キャップ)時代、行きつけのバー、スナックに都庁からの融資を出させるという離れワザをやってのけてもいる。で、自分の飲み代のほうはツケ、あるいはタダというちゃっかりぶり」と、その正体を暴いている。

 さらに同書には「彼(内藤)の女あさりはやまなかったらしい。しかも、酒を飲むと得意げに語るというからしまつが悪い」と“内藤スキャンダル”の一端が描かれている。

 今、内藤は、マスコミ界からもつまはじきにされている。自業自得ともいえるが「文は人なり」との格言通り、まず自身の人間性を磨き直すことから始めたらいかがであろうか。

(57・4・4付)

 

スキャンダル記事全てウソ

鑑定書で、内藤の作り話総崩れ

 月刊ペン裁判が九日、東京地裁で開かれた。この日は、被告人・隈部側の証人である内藤国夫に対して、検察官から反対尋問が行われ、山崎、原島に次いで、内藤の“証言”もまた、全てが作り話であり、かつ、その作り話もことごとく、見事に突き崩された。

 内藤は、周知のごとく、山崎や原島らのデッチ上げの情報をそのまま鵜のみにして雑誌等に一方的に書き、学会、名誉会長のスキャンダルをマスコミ界につくり上げた張本人。そのデタラメな記事内容と傲慢不遜な人間性については、「花形記者は転んだ」という本のなかでも明らかにされていたが、この日の尋問においても、これがジャーナリストかとあきれざるを得ない“証言”に終始し、あまりのひどさに傍聴した人達の失笑と怒りをかっていた。

 内藤は、これまで、学会幹部や公明党議員の子息が名誉会長の子供であるなどと、全くデタラメで、かつ人権侵害もはなはだしい悪質な作り話を雑誌に書いたり、法廷で証言していた。子供の父親が誰であるかなどは、血液型等を調べればすぐわかること。それを調査もしないで書いた内藤は、その点だけで、ジャーナリストとしても、人間としても失格であることが明らかだが、この日、検察官は、この内藤のいい加減さを厳正に追及した。まず検察官は「この件について、証人は、事実確認なり、本人に取材しているか」と尋問。

 これに対し内藤はなんら悪びれた様子もなく平然と「していない」と答え、傍聴席をまず驚かせた。

 そこで、検察官が、それぞれの血液型鑑定書を突きつけ「この鑑定書では、事実のうえで『父子関係が存在しない』と科学的に証明されているが、あなたの話は誤りではないのか」と鋭く追及した。

 内藤は、鑑定書を示され、思わずたじろいだが、すぐムキになって開き直り「こんな紙キレ一枚見せられて信用できるか」とヤクザまがいの回答に終始し、傍聴席の驚きと怒りをかった。

 信用できるもできないも、実は、この血液型鑑定書は、日本最高の法医学の権威として有名である東京医科歯科大学医学部法医学教室の中嶋八良助教授の鑑定によるもの。それによれば、当然のことながら、両者の間に「父子関係が存在しない」と明確に鑑定されており、内藤の書いたり、しゃべったりしたことが、真っ赤なウソであることが証明されている。

 それにしても、血液型鑑定書という科学的にも、客観的にも事実関係を裏付ける資料には「信用できない」といい、一方で、内藤自身も「謀略のプロ」と認めていた刑事被告人・山崎正友の言葉を、無条件に「信用する」という、この内藤の異常さにはあきれるばかり。到底、常識では考えられない転倒ぶりである。

 鑑定書で、そのウソが全て明るみに出た内藤だが、さらに検察官は「あなた(内藤)は何も調べずに、すぐ誰々の子ということを書くが、あなたには、そう書かれた子供やその両親の人権に対する配慮はないのか」と厳しく追及した。それは、内藤の余りにひどい人間性とデタラメな取材態度を許すまいとするいかりを込めた尋問だった。

 この尋問に対しても、内藤は「いや自分は、そういう意図で書いたのではない」と、答えにもならない弁明を繰り返すばかり。

 検察官から「あなたの書いたものが事実と違ったらどうするのか。人権侵害ではないか」と、更に問いつめられても「それは、関係ない」と逃げる内藤。自分が書いた事実無根の記事によって、言葉ではいいようのない苦しみを味わった子供やその両親の基本的人権など、なんら考えていない残忍な人間性を露呈した。

かくして検察官の厳正な尋問によって、内藤がこれまで書いてきたことや証言したことが、いっさい事実無根の話であることが暴露されたわけだが、この日の法廷で明らかになった内藤の異常な人間性、及び取材も事実確認もしないで、他人の人権を平気でふみにじる記事を書いた、そのジャーナリストとしての姿勢は、単なるウソではすまされない社会的に大きな問題であり、今後、社会のあらゆるところで糾弾されるにちがいない。

(57・4・14付)

 

平気でウソを書く内藤

ジャーナリスト失格を自ら暴露

 月刊ペン裁判(九日)では、検察官の尋問によって、内藤国夫がこれまで書いてきた学会、名誉会長等に対する誹謗・中傷記事は、なにひとつ事実を確認せず、関係者本人への取材もしていない、全くのデタラメな記事であったことが次々と暴かれた。

 たとえば、内藤は、某雑誌に、昨年夏、ある婦人のことについて“軽井沢で逢瀬楽しむ云云”などと、例のごとくウソ八百の記事を書いていた。

 これに対し、検察官が「あなたは、この件について、具体的な内容を調べたのか」と尋問。

 内藤は「詳しくは聞いていない。調べるといっても、その話を聞いたことが調べたこと。いちいち、ほんとかウソか、確認していたら書けませんから」と。

 さらに検察官が「軽井沢というが、それはどこを指しているのか」と尋問すれば、内藤は「どこかは分からない。長野との県境と聞いた記憶がある」と答える始末。

 重ねて検察官は「あなたは、聞いた内容をそのまま書くのか。なぜ軽井沢に行ったのか、本人に理由を聞くなど取材しないのか」と鋭く追及。

 内藤は「本人に聞いていない。直接、確かめるのは、はばかれる」と、口ごもって答えた。

 まったく、いい加減なジャーナリストもいたものだ。実際、調べてみれば、昨年八月初旬、長野研修道場で研修会が開かれ、数多くの参加者がいたことは、すぐ明らかになり、聞いたことが、悪質なデッチ上げの情報であることはすぐ分かるではないか。

 次に、例のいわゆる“正本堂のレリーフ”の件。これも、内藤は昨年十一月、猊下に師敵対した悪侶のニセ情報を知ってか知らずか一方的に鵜のみにして、正本堂の大前机の彫刻に関し、信仰と芸術を冒涜(ぼうとく)する中傷記事を俗悪週刊誌に書いていた。

 これについて検察官が「事実を調査したのか」と尋問すると、内藤は「現地調査はしていない」という。

 検察官は「制作者の小金丸幾久氏に、制作の意図など直接、取材していないのか」と尋問。

 内藤はぶ然とした表情で「その必要を認めていない。今もそうだ」とただ虚勢をはるばかり。

 そこで検察官は、本紙五十六年十一月二十八日付三面に掲載された小金丸氏の手記を示し、大前机の彫刻は、日達上人から直々の御指南を賜って制作していたこと、正本堂内の仏具等については、すべて日達上人自ら指示され、総本山の手で進められていたこと、などを知っているのか、と問いただした。

 これに対し内藤は「そんなものは、ウソっぱちにきまっているんだ」と、驚くべき“証言”。では、具体的にどこがウソなのかについて、なにも反論できなかった。

 彼自身が「宗教をまったく勉強していない」と告白しているように、内藤は全くの宗教オンチ。事実をねじ曲げて、荘厳な正本堂に傷をつけ、日達上人のお心を踏みにじる正信会の連中の悪意に満ちた情報を、なんら確認、取材もせず、そのまま一方的に書いていたことが明らかになり、この“正本堂レリーフ”についても、なんらの根拠のない話であることが明確になった。

 一事が万事、内藤が書いたり、しゃべったりしていることは、根拠のないデッチ上げの作り話ばかりである。

 検察官から再三、スキャンダル記事を書く取材態度を尋問されると、内藤は「事実確認はしていない。本人に直接、取材はしない。その勇気もなく、必要性も認めない。数回、聞いたら真実だと受けとめて書いている」と繰り返すばかり。

 この裁判の証言だけでも、いかに内藤が「ジャーナリストのモラル、基本」を逸脱しているかが明白である。まさに、ジャーナリスト失格を、ご丁寧に自ら出廷し、自ら公に暴露した一幕だった。

 「新聞倫理綱領」に「報道の原則は事件の真相を正確忠実に伝えることである」と記されているが、毎日新聞の“花形記者”といわれた内藤が知らないはずがない。

 「新聞倫理綱領を持ち出すまでもなく……とおりいっぺんの活字が無遠慮に介入することは、人間の尊厳にかかわることだ」(「新聞之新聞」岩見隆夫氏)と、同じジャーナリストの立場の人からも内藤を厳しく指弾する声が相次いでいる。

 社会の公器たるマスコミ界にあって、正確を期すはずのジャーナリストに、こんな“欠陥人間”がいたのか、と思うとあいた口がふさがらない。人道的にみても、内藤のデタラメぶりは、断じて許されない。

                     (57・4・15付)

 

スキャンダル騒ぎに終止符

“三人組”のお粗末なデッチ上げ崩壊

 月刊ペン裁判において、原島、山崎、内藤の“三人組”が枕を並べて討ち死にしたことにより、この二年近く続いた異常なスキャンダル騒ぎも、事実上、終止符が打たれることになった。

 もともと事実無根のスキャンダルであったことは言うまでもないわけだが、彼ら三人組は、これまで彼らが密談してデッチ上げた作り話を一部の俗悪週刊誌、雑誌等で喧伝(けんでん)し、また一方では、月刊ペン裁判の場を悪用して、本件の事実立証と関係あるかのように装い、その実、全くデタラメ証言を繰り返し、一連のスキャンダル騒ぎを増幅、拡大してきたのである。

 事実、月刊ペン裁判は、この三人の合作ともいうべき“証言”を除くと、あまりにこっけいで話にならない虚言ばかりで、ますます被告人・隈部の有罪は明らかになってきている。

 実は、この騒ぎの発端は、いまから二年前の昭和五十五年五月十八日、都内のシャブシャブ料理屋での山崎と内藤との密談であった。

 山崎恐かつ事件裁判での内藤証言等でも明らかにされていたが、この日、内藤は、山崎らが流した宗会選挙に関する怪情報を書いた「現代」七月号の原稿を山崎に見せた。その際、山崎は“マジック事件の幼女は、名誉会長の子供”という全くデタラメな作り話を内藤に吹き込んだのである。

 愚かにも内藤は、事実確認も、裏付け取材もせず、魔にとりつかれたように、この山崎の作り話をそのまま鵜のみにして、原稿を書き加えたのであった。

 希代の謀略のプロ・山崎は、再び学会から金銭を脅し取ろうと策謀を企て、この内藤の初校ゲラを使って恐かつの舞台装置をつくろうとしたのである。

 さらに山崎は、内藤を通じ「現代」編集部からもらった初校ゲラを俗悪週刊誌に流して、この一連のスキャンダル騒ぎを巻き起こそうと画策したわけである。

 “火のないところに煙はたたない”ということわざがあるが、彼らの場合は、この逆で、まさに火のない所にマッチをすって、火をたきつけたのが山崎であり、その火種に油を注いで大きくしたのが内藤、週刊誌という構図であった。

 かくして、火付け役・山崎のデタラメな作り話をそのまま書いた内藤のスキャンダル記事が「現代」七月号に掲載されると、ほぼ同時に、一部の週刊誌等でも一斉に、そのデッチ

上げに飛びついたわけである。

 それからは“煙が出ているのだから火が燃えていないわけはない”というスリ替えのもと、週刊誌の記者達は、われ先にとばかり、山崎、内藤、ついで原島と接触を図り、彼ら三人組をマスコミの“寵児”に仕立て上げて、一連のスキャンダル記事を異常なほどに書きたててきたというのが、ことの真相であった。

 だが、月刊ペン裁判で、彼ら三人組が書いたり、しゃべったりしてきたことが、すべてウソであることが法廷で明らかになり、スキャンダルの根拠がいっさい彼らのねつ造であることが明確になる結果となった。

 それにしても、この騒ぎ、酒乱で幼児性の原島はともかく、一度は弁護士を肩書にもったものや、“花形記者”とチヤホヤされたジャーナリストが仕組んだ騒ぎにしては、余りにもお粗末な品性と知性の産物だったとは巷の声。

 とともに、この二年間、何かといえばスキャンダル、スキャンダルと社会に悪質なニセ情報の“公害”をまきちらし、その間、幾多の人々の尊い人権を土足で踏みにじってきた彼ら三人組の悪行と、これに商業主義という隠れミノのもと、便乗してきた一部の俗悪週刊誌等の社会的責任は、極めて大きい。

 今後、二度と、こうしたえん罪と人権侵害が起こらないためにも、その悪行を厳しく問いつめなければならない。

                       (57・4・18付)

 

忘れ去られまいともがく内藤

支離滅裂な言動こそ“社会悪”

 月刊ペン裁判でのデタラメ証言で自ら墓穴を掘ってしまった山崎、原島、内藤の三人組。そのショックからか、しばらくおとなしくしていたようだが、一部の週刊誌、雑誌でまた悪あがきを始めた。

 彼らは、学会や名誉会長を槍玉にあげて非難していく以外に生活の糧がないのであろうか。それとも社会から忘れ去られるのを恐れて自己宣伝の手段としているのか。いずれにしても卑しい性根の持ち主である。

 こんなくだらないものに対して筆をとるのもばかばかしいが、放置しておけば、それをまた材料にして幾倍にも増幅していくのが彼らの常とう手段である。ゆえに、事の真実をはっきりと指弾しておこう。

 内藤国夫は、先の月刊ペン裁判での支離滅裂な証言により、ジャーナリスト失格を自ら露呈し、トドメを刺された格好だが、あきらめきれずに某雑誌で泣き事を並べている。彼云く。「証言内容に、もし、あいまいさがあったとすれば、情報源の秘匿に関してだけである」と。

 内藤が“情報源の秘匿”とかいって体裁をつけてゴマカスのは結構だが、少なくとも、何の事実確認、取材もせずに平気で記事にするとはどういうことか明確にするべきである。愚劣な記事を雑誌にダラダラと書いて行数(それとも原稿料?)をかせぐよりも「ジャーナリストのモラル逸脱」「人権の侵害」「非人間性」等の内藤批判に少しでもまともな反論をしたらどうか。

 たとえば、誰々の子供がどうだこうだと邪推して平気で人権を踏みにじるようなことをしておきながら、血液鑑定書で内藤のウソが暴かれると、彼は某誌で「紙片れ一枚で、たじろいだりするものか」と反論にならないお粗末な言を弄するばかり。自らの事実誤認が明らかになったら“筆を折る”との潔さでも披露すれば、と思うのだが、そんな気骨を求めるのは所詮、無理なことだろう。

 また内藤は、関西青年平和文化祭についても批判しているが、広島、長崎市長をはじめ多くの来賓の声を罵倒して、よりによって文化祭を見てもいない「継命」の妬み記事を信頼すると公言している。揚げ句の果てに、練習中の事故と称して中傷記事を書いているが、病名、日時、事実経過まで全てデタラメ。取材、事実確認などした形跡が全くない。まさにブラックジャーナリストに転落した哀れな姿だ。そんな記事が平然と掲載されるのだから、雑誌編集部の無責任さにもあきれ果てる。

 また内藤が、ある雑誌で対談しているが、その内容たるや、まるで羽をとられた“蚊”のようにあちらこちらに八つ当たりしているこっけいな姿。学会と大新聞の関係を感情論でうんぬんしているようだが、内藤のごとく「新聞倫理綱領」を逸脱して退社した“転落記者”の言など、誰も信用しないし、相手にしていない。

 ある作家が「世間というものは不合理な噂を好む、ありそうもない事であればあるほど、それを喜んで信じようとするものである」と。しかし「眼のある人間が読めば、それらの戯文が虚構だということはすぐにわかるだろう」ともいう。まさに、学会、名誉会長に対する非難、攻撃の卑劣さを見抜いていく視座である。

 最近、内藤ばかりか原島までも、俗悪週刊誌に登場して、国連軍縮特別総会のことを薄っぺらな言でうんぬんしているが、青年部を中心とした学会の平和運動、名誉会長の仏法者の平和行動を少しでも知っているものからすれば、全く論外である。内藤、原島よ、見せかけの“社会正義”で自分を飾るよりも、自らの卑しい性根、だらしない生活を正すことが、余程、社会のためである。

(57・5・9付)

 

「スキャンダルの根拠なし」

お粗末、月刊ペン裁判での羽柴証言

 月刊ペン裁判が七日、東京地裁で開かれた。この日は、被告人・隈部側の証人として、檀徒たちの新聞「継命」の元編集長の羽柴増穂(退転者)が出廷。謗法新聞「継命」の元編集長という肩書きだけで、学会に一方的に悪意をもつ証人であることは明確だが、この羽柴、昭和五十四年に学会を脱会し、一時は、週刊誌で、山崎、原島の前に学会造反のヒーローのごとく扱われていたかと思うと、今度は、正信会、檀徒とも仲間割れして、今年一月には、正信会の内部告発の本を出版する告発者に様変わりする忙しさ。根本の信心が狂っているがゆえに、その都度、流転していく典型的な退転者である。

 その羽柴に、どこまで証言能力があるか、危ぶまれていたが、はたせるかな、この日の法廷では羽柴は、憶測や伝聞による具体性のないあいまいな証言を繰り返すばかり。彼もまた、スキャンダルの真実性を立証するどころか、逆に巷間いわれているスキャンダルがいかに根拠のない話であるかを明らかにする結果となった。

 羽柴は、昭和五十四年十一月にも、この裁判の第二審(東京高裁)で被告人側の証人として出廷。その際、羽柴は、隈部が書いた中傷・誹謗記事(月刊ペン五十一年三、四月号)に対して、「それが出版された当時、(スキャンダルは)ありえないことだと思った」と証言していた。

 今回の公判で、裁判長は「あなたの話はあいまいなところがあって、具体性がない。要するに(月刊ペンが出版された)五十一年を基準とすると、それ以前には、スキャンダルめいた話を信用していないし、否定していたわけですか」と尋問。

 羽柴は「そうです」とうなずき、あっさり自分の証言と月刊ペン事件とが無関係であることを白状してしまった。

 さらに裁判長鋭くいわく。

 「あなたの話の根拠は何なのか……。(ウワサの)もとをたどれば、責任をもって真実だと誰がいえるのか」と。

 これには羽柴は、まともに答えられず、ようやく「週刊誌か雑誌に書かれてあるのを見た」と、答えにならぬ答えで傍聴席の失笑をかっていた。

 これでは羽柴が何のために法廷に出てきたのか、何を言いたかったのか、と誰もがおかしいと感じたわけだ。

 結局、羽柴の証言では、彼自身の目撃事実など全くないことは当然のこととして、具体性のある話も皆無。ただ、一部の週刊誌、雑誌に書いてあった中傷記事を読み、そのウワサ話のたぐいを事実かもしれないと思い込んだにすぎないというのが、その実態だった。

 それにしても、あきれはてた証人もいるものだ。被告人・隈部側は、何人、こうしたこっけいな証人を出しつづけるのであろうか。出せば出すほど被告人側のボロが大きくなり、ますます自らの首をしめていく結果になることをリアルに描き出しているのが、最近の月刊ペン裁判の現況である。

(57・5・13付)

 

「三畳間の存在なし」を証明

航空写真等の証拠でも明らか

 月刊ペン裁判が二十一日、東京地裁で開かれた。第十七回を迎えたこの日の公判から、いよいよ検察側の反証が始まった。

 これまでの公判廷では、被告人・隈部側から八人の証人が出廷して、卑劣な作り話やデタラメな証言を繰り返し、新たなスキャンダル騒ぎを起こそうとしてきたが、その都度、検察官の反対尋問、裁判官の尋問によって、作り話が次々と突き崩されていった。

 もともと、この裁判では、被告人、弁護人側に立証責任があるにもかかわらず、これまでの公判廷をみるかぎり、むなしい証言ばかりで当然のことながらその立証はまったくなされていない。それどころか、検察側の反証をまつまでもなく、学会、名誉会長等に対するスキャンダルがすべてねつ造されたもので、全くの事実無根であることが証明される結果となった。

 今後、検察官の反証によって、被告人側証人の証言それ自体が、いかにデタラメなものであるかが具体的事実をもって更に次々と証明されていくことになろう。

 この日、検察側の証人として、これまでの被告人側の証人のデタラメ証言に鋭く反証していったのは、昭和二十九年当時、大宮地区(埼玉県)の地区拠点であった松島家の家族や家事手伝いとして同居していた人たち。

 この地区拠点に二十九年秋、名誉会長がきて、ここの三畳の部屋で云々と、被告人側の証人は作り話をデッチ上げて喧伝しているのだ。ところが当時、そんな三畳の間など、松島家にはなかったことが、この日の証人たちの証言で明確に論証されていった。被告人側の証人は、見たこともないことをあたかも見たかのごとく、つじつまを合わせて芝居気たっぷりに語っていたが、この日の証言で、ものの見事に、その根拠がくつがえされていったわけである。

 この日は、まず当時をよく知る二人の証人が証言。そのうち、高根美枝さんは、二十九年九月から十一月にかけて松島家に同居していた婦人である。

 検察官が「当時、松島家に三畳間があったか」と尋問したのに対して、高根証人は「私が松島家にいた頃には、三畳間はなかった」と明確に証言した。

 続いて、二十九年十一月から三十二年八月まで松島家に家事手伝いとして住み込んでいた米山美枝さんが証言。

 検察官は同じく米山さんに対しても「当時、松島家に三畳間があったか」と尋問。米山証人は「二十九年には、三畳間はなかった。その後、三十年春ごろ、松島家が改築されてから三畳間ができた」と証言した。そして、高根、米山証人は、いわれるところのスキャンダラスなウワサなど、当時もなかったし、また、全く考えられないことである、と述べ