法廷で暴かれる

山崎正友の陰謀

 “山崎事件”の第九回公判が十日、東京地裁で行われた。希代の陰謀家である山崎正友の正体が、法廷において、日を追ってあぶり出されてきている。

 この日は、金に狂った山崎が、私利私欲のため勝手に手がけたシーホースグループの問題が中心。これまで山崎は俗悪、低劣な週刊誌などに「シーホース」を設立したのは学会からの依頼であり、学会の関連企業であるなどとぬけぬけと虚言を弄してきた。だが、今回の公判で、検察側の証人である福島啓充弁護士が、個々の事実関係を通し、当時の証拠書類を一つ一つ示しながら、学会とシーホースグループとは何の関係もないことを明確に証言。山崎が週刊誌等で書いていることは、全くのデタラメであることを立証した。

 この黒き稀にみる野心家が、宗門を破壊させ、多くの人々を犠牲にしている生きざまに対して、人間以前の畜生根性の持ち主とささやかれている。検察側の冒頭陳述において、検事は、その「犯行の経緯」を明らかにし、山崎が「恐かつでも何でもよい。百も承知だ。弁護士をやめて刑務所に入ってもいいんだ」と、うそぶいていたことも、指摘している。

 心ある人々は「希代の悪党」「デッチ上げの名人」「ウソつきの天才」「つじつま合わせの大ペテン師」と、その本質を鋭く見破っている。

「普通のウソツキは、種から出る芽を変えるものだ。しかし、山崎は種そのものを変えてしまうめずらしい人間だ」とは、ある法律家の弁。

 ところでこんな男のペテンを、ペテンと知ってか、しらぬか掲載している一部の週刊誌等の責任も問われなければならないだろう。

 小才子の嘘で固めた自らの土台の崩壊にうろたえる山崎が、杖とも柱とも頼っているのが、これらの週刊誌等。巷では“全く読む気がしない。あきあきして、中毒にかかってしまった”と見向きもしなくなった。いずれの時代でも大衆は賢明である。

 いみじくもあるジャーナリストは“この犯罪は、マスコミを操作して行われた特異性の事件である”と見事に斬っていた。

 「悪は悪の本質として、悪への平均化を狙う」という明言がある。山崎も一部マスコミも、自らの品性が劣悪なのであろうか、全てを悪の目で見、悪の次元にまで引き下ろし平均化させなければ気がおさまらないのであろうか。それと対照して、真実の学会を知る入信者が激増していることが全てを語っている。

(56・9・13付)

 

陰湿な男と男とのつながり

 山崎正友と原島嵩――世間をあざむき、日蓮正宗創価学会の信仰の世界を、ねたみからか破壊せんと狂奔した、この二人の男と男とのつながりは、まことに陰湿。「湿地帯を徘徊(はいかい)する小爬虫類(はちゅうるい)さながらである」とはある雑誌記者の言。

 原島は今、猊下に敵対し邪義を唱える謗法の徒「正信会」と称する狂信グループの三文機関紙「継命」に寄生し、生計を立てていると聞く。

 一年前、原島は「今や学会は音をたてて崩壊しつつあります」と大見えを切った。一部週刊誌から踊らされているとも知らず、学会告発の“主役”と持ち上げられ得意満面。「俺が立ち上がれば、学会内で必ず十万人は続くであろう」とうそぶいていたが笑止。だれ一人、続かなかった、この事実。

 自らの不正を棚にあげて常に告発者ぶって週刊誌の記者連に酒を飲まされては、酔ったあげく見るに耐えない痴態をさらけ出すありさま。これにはさすがの世慣れた記者も、その下劣な品性に二の句がつげなかった、とか。

 酒と女と狂った野心にほんろうされた、このあわれな転落者は、善のよき人々を陥れながら山崎とつながっていったのも当然といってよい。

 信心が破壊された原島は、出るべき会合もさぼり、しだいに酒色三昧に。酒に酔っては山崎の留守をみはからってはその家に行き、家人に卑わいな態度をとる始末。さすがの山崎も、原島の醜態にいかり狂い「あんなひどい男は、とっちめてやる」とまで言った。

 金ぐるいの山崎は、土地ころがし等でもうけた“黒い大金”で、高級クラブや料亭で接待したり、高価な背広を買ってやったりしてこの原島の弱味の首をがっちりにぎって手なずけた。

 人をだます天才・山崎にしてみれば、酒と女と金にきたない原島を思うがままに操ることは、朝メシ前だった。

 原島は、山崎とはかつて学会資料を盗み出し、その際、山崎から金をもらったとささやかれている。山崎は恐かつで逮捕され、刑事被告人。この二人、最後の悪あがきか、必死の画策に狂奔。

 ひたすら週刊誌にすがり、おそれ多くも、戒壇の大御本尊を否定する松本勝弥(退転者)の助っ人として裁判にしゃしゃり出たり、そのなりふりかまわぬ姿は“恐かつ者”と“盗人”の末路にふさわしい。

 こんな徒輩が、学会うんぬんとわめきたてるのは、自らの影にほえている、引かれ者の小唄にすぎない。

(56・9・27付)

 

真実の前に崩れゆく奸計の数々

 永年の間、極悪非道とも言うべき暴言をもって学会員をいじめ抜いた悪侶達のグループ“正信会”。そこから飛び出したT僧がこのたび「覚醒運動の興亡」という本を出版。ここには彼らグループの陰険な正体が見事に暴露されている。

 内容は「歪んだ覚醒運動の行方」「流民化する檀徒の叫び」「大御本尊否定の言辞」等々、厳しく実態を告発。たとえば「山崎の週刊誌でのあいまいな暴露だけが根拠としたら、はずかしい限りである」(取意)と。

 また「総本山は魔のすみか。登山したいという者は謗法同然」と悪侶も檀徒もいっている。

 さらに離脱した檀徒は「正信会の僧侶はおかしい。自分達の事しか考えていない」とも。

 彼らの機関紙「継命」の元編集長であった羽柴某の言がおもしろい。「継命」を飛び出したこの男は「継命編集室の実態は、信心の世界とは思われない、伏魔殿のような謀略、策謀、権力闘争がドス黒く渦巻き、醜悪な支配欲と独善的な名聞名利、そして一切の批判拒否に明け暮れる密室社会そのもの」と断言している。

 それとは知らぬ「継命」に踊らされている一部マスコミ、檀徒達こそ目を覚ましてもらいたい。

 刑事被告人・山崎正友の恐かつ事件の公判が十四日、開かれた。検察側の証人である広野輝夫氏が、山崎の宮本邸盗聴事件の陰謀を明らかにした。その一部を紹介したい。

 広野氏は証言のなかで、山崎の指示により、昭和四十五年五月から七月にかけて、日本共産党・宮本書記長宅(当時)の電話盗聴を行った、と語った。

 この盗聴事件、学会首脳には他言するなと念をおしたうえで、山崎の独断で行われたことが、広野証言で明らかになった。

 広野証人は、盗聴の計画を山崎から明かされたとき「本部の指示なのですか」と反問。すると山崎は「お前は本部の指示でなければできないのか。そんなことで仕事ができるか」と、明らかに山崎の独自の判断で実行することを明言した。

 また広野証言によると、昭和四十五年五月三日の第三十三回本部総会で、学会として共産党への基本的な態度を明確にした。学会では、共産党の情報など全く必要としていなかったので、当時「それでも盗聴する必要はあるのか」と確認。山崎は「学会首脳の考えは甘い。必ず共産党の情報は必要になる」と、山崎自身の独自の判断で行うことを重ねて明言していた。

 「月刊ペン事件」の裁判が十二日、開かれた。この「月刊ペン」のデッチ上げ記事の情報源は、卑しげな“たかり屋”という札つきの男。今回登場した六十過ぎのO女(退転者)は、地元では「怨嫉製造機」とか「デッチ上げ居士」ときらわれものだった。“虚言癖”で有名なこの証人は、のっけから、自らの品性を反映した卑しい作り話に終始していた。

 この世にも不思議な“才女”は、裁判所をあの手この手で言いくるめようとして、その見事さは、ブラックジャーナリスト顔負け。そんな、荒唐無稽なねつ造のストーリーを裁判所は鋭く見抜くことであろう。

 その裏には、奸智にたけた一連の策士がいることは、誰人も感ずるところだ。まさしく偽証罪もまぬかれない証言であった。

(56・10・18付)

 

世間を惑わしてきた真相が日ごとに明らか

 刑事被告人・山崎正友の恐かつ事件の公判(十四日)で明らかになった、山崎の悪質な謀略の数々を紹介したい。

 広野証言によると、山崎は、昭和五十三年三月ごろから、一部の俗悪週刊誌に情報を流し、学会批判記事を書かせようと画策。弁護士として預かっていた社長会記録と称されているものなどを週刊誌編集部に届けたり、記者にねつ造した出来事を吹き込んでいた。

 “社長会記録”は、ある人の主観により創作、脚色した個人的なもの。記録文書でも公式のものでもないことは、すでに法廷で明らかにされている。

 当時、山崎は“学会を守るために、何とか宗門との関係を調停する”と買って出ていた。その実、学会と宗門の離間工作をたくらみ、陰では種々の策略をめぐらして学会攻撃をしていたのである。

 たとえば、広野証言によると、山崎は「今後の作戦」「現下の情勢」等の謀略文書を次々と書いていた。これが、現在に至るまで正信会グループの“作戦”となっていることは明らか。

 さらに証言によると、昭和五十四年九月、山崎は顧問弁護士であるのに“正信会”の核である山口法興らと連係をとり、檀徒達を使って、学会を相手どった特別財務返還訴訟を起こした。すでに山崎の自筆による訴状の下書き原稿も提出され、裁判所に証拠として採用されている。

 また同年十月の衆院選の時、彼は、いわゆる“謗法選挙ビラ”を書き、正信会に手渡していた事実も判明。このビラは、学会を誹謗・中傷するとともに、支援活動を妨害する悪質なものだ。彼は、このビラを大量に檀徒を使ってばらまいた。

 山崎の自筆によるビラ原稿も裁判所に証拠として提出されている。

 山崎らが、自らの黒き野望を遂げんとたくらみ、数々おこなってきた謀略は広野証言で動かぬものとなった。

 山崎ら“魔の連合軍”のねらいは、宗門と学会を自らの手中にせんとして、その最も手強き不動のカベたる名誉会長を追い落とすことにあったのだ。

 ここを砕く以外に思うがままに牛耳る術(すべ)がないので名誉会長にありとあらゆる多くのぬれぎぬ、事実無根の烙印をおそうとし、落とそうと狂いかかってきたことは明瞭なことであった。

 この悪逆にして非道の奸計(かんけい)は、公判が進むにつれ、一段とあぶり出されていくであろう。

(56・10・21付)

 

被告人・山崎の悪あがき

裁判の証拠書類まで改ざん

 刑事被告人・山崎正友は、裏でありとあらゆる奸計を企て、一部の悪質週刊誌、雑誌等を利用して、世間を欺き人々をだまし続けている。はからずも、山崎の悪らつな手口の一端が、去る三十日に開かれた山崎事件の裁判でも明らかに。

 山崎が昭和四十九年から五十年にかけて、自分のダミー会社・山下商事を使い、土地ころがしをし黒い金をつかんだのは、今や周知の事実。ところが彼は、この悪行の露見をおそれて、スリカエに躍起になっている。

 最近も、ある集会において、山崎はその土地の件で「四十九年三月の段階から墓地についての折衝があった。それは、墓地の候補地についての報告書が北條理事長に出されていたことでわかる」と。

 つまり、山崎は、四十九年三月の時点で、墓地(富士桜自然墓地公園をさす)の候補地について北條理事長に報告しているので、自分の独断で土地ころがしをしたのではないといいたいらしい。

 ところが、これは真っ赤な嘘。まず、四十九年三月当時の理事長は和泉理事長であり、北條理事長が誕生したのは同年十月のこと。また、そもそも彼のいう墓地用地の話が出たのは五十年八月末のことで、四十九年三月の段階では全くなかった。

 加えて、この報告書は八尋弁護士が山崎の電話を受けて作成したもの。八尋弁護士の証言によると、これは五十年九月末から十月に書かれたものである。また、内容からも明らか。山崎は、この報告書の日付をさかのぼらせて人々を欺き、自分のやった土地ころがしに学会が関係しているようにデッチ上げたのだ。

 ところが、この報告書、去る三十日に開かれた山崎事件の裁判で、山崎側から八尋弁護士への反対尋問の“有力な”証拠書類として、裁判所に提出された。

 その報告書は原本ではなくコピーだけ。原本には日付が入っていたはずなのに、提出されたコピーではそれが消され、日付の欄だけ空白にされており、欄外に明らかに後から押したと分かるゴム印で「49・3・1」と。この証拠書類について、検事から「ゴム印の数字が日付を表しているのか」と鋭く釈明を求められると、山崎の弁護人は「日付かどうか定かでない」と弁明せざるをえない始末。結局、逆に自分達の首を絞めかねないとみてか、あるいは、さすがに裁判所までだましとおせないとみてか、山崎に弁護人は、とうとうこの報告書を使用できず、はからずも、山崎のスリカエの手口が、この日の裁判で明らかになった。

 これは、被告人・山崎が、土地ころがしの露見をおそれて、自分の都合のいいように“報告書”を改ざんしたことを逆に証明するもの。彼は、法廷においてまで、陰険な策略を使い、裁判所をだまそうとする悪あがきぶり。

 こんな調子で、これまでも社会に向かってウソ八百を並べてきた山崎だが、そんなことがいつまでも通用するわけがない。

(56・12・6付)

 

山崎が“原点”だった覚醒運動

“正信会”にも黒い金

 “山崎事件”の第十五回公判が十五日、開かれた。この日は、検察側の証人として大豆生田(おおまめうだ)勝美氏が証言。山崎のもとで働き、彼の秘書役や車の運転もしていた同証人は、山崎の陰謀を次々と明らかに。

 まず、山崎と“正信会”悪侶達との関係。最近“正信会”の連中は、機会あるごとに山崎との黒いつながりを否定しているが、結局、彼らの運動を陰で操り、宗門と学会の離間工作を企てていたのは、山崎であることが今回の法廷で動かせない事実となった。

 証言によると、山崎は、昭和五十二年ごろから、正信会メンバーの浜中和道(大分県で反学会活動をしていた中心者)が上京してきた折、その都度、十万円ぐらいの小遣いを渡していた。

 大豆生田証人は「山崎の命令で秋葉原にテープレコーダーを買いに行き、浜中に二回渡した」と証言。山崎が、浜中に小型のテープレコーダーを買いあたえ、さまざまな情報を収集するように指示していた、と。同証人は「浜中が山崎の事務所に持ち込んだテープを何回もダビングした」と証言した。

 また山崎は、浜中を使って反学会の情報を正信会の連中に意図的に流し、各地で檀徒達に吹聴させていた。

 この浜中、山崎の指示により、原島が盗み出した資料・段ボール箱十三個を自分の寺(大分の伝法寺)に密かに保管していたことは周知の事実。この時、山崎から三百万前後の“黒い金”が浜中に渡されている、という。

 また証言では、山崎が、正信会の中核である山口法興(僧籍はく奪)と組んで反学会活動をしていたことも明らかに。昭和五十四年秋には、原島が盗み出した資料を分類、整理して、主要なものを同証人にコピーさせ、何回も山口の寺に運ばせていた、と。そのなかに、いわゆる“北條報告書”もあったと明言。

 山口は、妙真寺の御講でこの資料を見せ、学会批判をしていたばかりか、これを全国の正信会の連中に流し、反学会攻撃の材料にしていたのである。

 山崎はこれまで、原島の盗んだ資料はあずかっていただけと弁明していたが、今回の証言で、山崎が山口らとはかって資料を流し、反学会攻撃をしていたのは明らか。また山崎のウソがばれてしまった。

 さらに証言によると、山崎は「継命」の記事を何回も書いては、彼が使っている女性事務員に清書させ、同証人に命じて、山口法興のところへ届けさせていた。なかでも、昭和五十五年一月十五日付の「継命」一面の“道標”は山崎の執筆によるもの。山崎は愚かにも、同証人にその「継命」を見せて“どうだ、すごいだろう。オレが書いたのだ”と得意気に話していたことも明らかになった。

 「正信覚醒運動の原点」と題したこの“道標”は、あたかも“正信会”の僧が書いた体裁にしてあるが、タイトルからも明らかなように“覚醒運動の原点”は、信心の破壊された山崎だったとはなんともおそまつな話である。

 一連の正信会の狂った言動の背後に、やっぱり山崎がいた。

(56・12・20付)

 

山崎による陰謀の手口

怪文書で宗門の離間企てる

 刑事被告人・山崎正友に対する裁判(十五日)の大豆生田(おおまめうだ)証言で明らかになった、山崎の悪質な陰謀の手口を、前回に続いて紹介したい。

 そのひとつは、山崎と原島の黒い金で結ばれた関係――。山崎は、大豆生田証人に指示し、昭和五十三年から五十四年にかけ、たびたび、二、三十万円を原島に渡していた。

 同証人は当初、原島の自宅に金の入った封筒を届けていた。しかしある時、彼が留守で原島夫人に渡したことがある。その直後、原島が「女房に知られたらまずい」とおこって、同証人に偽名を使って連絡をとるように指示。以降、原島の指定した場所で、山崎からの金をひそかに手渡していた、と。また、山崎が、事務所近くの店で、原島に高級背広を買い与えていた、とも証言した。

 また証言によると、昭和五十四年九月下旬、原島が本社から資料を盗み出し、山崎の事務所に運ばせたことが確認された。同証人は、山崎のおかかえ運転手・田中某が運んできた資料を見て、山崎が「学会攻撃のミサイルだ、ミサイルだ」とはしゃいでいたことを目撃している、と。

 実は山崎、盗み出し資料を運ぶさい「キャデラック(山崎の車)では目立つから」と田中運転手に指示し、大豆生田証人の車であるホンダアコードで運ばせた。そして資料を盗み出した原島に二千万円の金を渡していたのである。

 原島は“正義の告発者”気取りで恥ずかしげもなく俗悪週刊誌に登場しているが、一皮むけば、山崎に金縛りにされ、酒と女に狂っている醜態をあばかれるのが怖かったのである。

 さらに山崎が宗門と学会の離間工作を企てていたことも証言された。山崎は、昭和五十二年から、大石寺の東京出張所に、十数回、日達上人を訪ねていた。その際、山崎は、大豆生田証人に「ここに来たことは黙っていろ。学会幹部には内緒だ」と口止めしていた、と。また、昭和五十三年五月ごろから、山崎は、東京のS病院に通院してくる日達上人を訪ねていたが、同証人に対し“人に見られないように地下駐車場に入れ、学会には内緒だ”と言っていた。

 この証言からも、山崎が五十二年ごろから、学会には内密に怪しげな行動をしており、日達上人にとりいろうとしていたことが明らかになった。

 昭和五十四年秋、御法主日顕上人のもと新たな宗務院の体制が確立された直後、“エンマ大王”という名で宗務院批判の怪文書が大量に出回った。

 この怪文書も山崎が書き、彼の事務所でタイプしたものであることが明白になった。大豆生田証人は“エンマ大王”という文字が印象に残っている、と。さらに、山崎事務所の女子事務員が白手袋を両手にはめて、怪文書を封筒につめていた。同証人が、ビラを手に取ると、彼女は“指紋がつくと困る”といって、あわててハンカチでその部分を消していた、とも語った。

 五十四年秋といえば、すでに法廷で明らかにされているように、山崎が、学会を相手どった特別財務返還訴訟の訴状原稿を書いたり、いわゆる“謗法選挙ビラ”を書いた時期でもある。

 裁判が進むにつれ、山崎の悪の手口が次々とあばかれていく。彼が、黒き野望をもって数々おこなってきた謀略は、大豆生田証言で動かぬものとなった。

(56・12・21付)

山崎を“我が同志”と正信会

檀徒達を金集めに利用

 恐かつ事件裁判で山崎正友の謀略が次々と暴かれているが、彼を取りまく一部の人間によって、最近「山崎正友を支援する会」なるものが発足した、という。

 同会は、山崎を支援する名目で“カンパをお願いする”もの。檀徒などから金を集める魂胆がみえみえ。また、同会の事務局は、共産党系として有名な弁護士といわれる人物の事務所。この弁護士、山崎の恐かつ事件裁判では彼の弁護人になっており、さらに宗門裁判では正信会側の代理人にもなっている。

 その“会報”には、例のごとく内藤国夫と佐々木秀明(僧籍はく奪)が登場。なかでも佐々木は「山崎を我々は同志と見ます」と書いている。最近、正信会の連中は法廷の証言などで山崎との黒いつながりを躍起になって否定しているが、一方では“我々の同志”と明言するに至ってはおそれいる。

 “正信会”の中核である佐々木がなぜ“支援する会”に名を連ねているかといえば、檀徒達から金を集めやすいよう手をかしているということだろう。それにしても、あわれなのは檀徒達、山崎と“正信会”の黒いつながりによって信心を破壊され、さらには恐かつ罪の刑事被告人のための金集めまでに利用されている。

 この佐々木、昭和五十三年八月、若手僧侶の会合で「マスコミを使ったことが私たちの運動を助けたことを認めてほしい」と発言。マスコミ社会とは全く縁遠い彼ら正信会がマスコミを操って学会批判、宗門・学会離反説を流していた。

 最近、発刊された「謀略僧団 悪業の巣」によると、山崎は、佐々木を「秀明……」と呼び捨てにして「坊さんだって、檀徒だって、全部おれが指揮をとっているんだ」と。つまり、陰で山崎が正信会を操り、マスコミの画策をしていたことが十分に分かる。

 山崎のマスコミ画策の手口については、恐かつ事件裁判(十五日)の大豆生田証言で、より一層、明白になった。

 証言によると、昭和五十三年三月ごろ、大豆生田証人は、山崎の指示で、いわゆる“社長会記録”等を、二部、コピーした、と。

 そのコピーが、山崎の指示で週刊誌編集部に届けられたことは、すでに法廷で明らかにされている。

 また証言では、同年四月、週刊誌の記者と会うため、ホテルオークラに偽名で二部屋を借り、山崎の命令により、彼のもとにいた広野氏が記者と会い、山崎が別部屋から広野氏に指示を出していた。山崎のそばにいた大豆生田証人は「山崎が“藤井”と名乗り、受話器にハンカチをあてて、週刊誌記者と話していた」ことを目撃している。さらに同証人は、ホテルオークラに前金を払った“預かり証”を証拠として示し、その日付が四月七日であることまでも明らかにした。

 山崎がリークした“社長会記録”などが、そのまま四月下旬にS週刊誌に掲載されたわけである。

 この証言で、山崎がどのように否定しようとも、学会批判記事を週刊誌等に書かせていたことは、動かせない事実となった。山崎の手口は、自分自身が“黒子”となって週刊誌に虚実織りまぜた情報を提供し、都合のいいようにマスコミに対して画策していたのである。

 山崎の悪事が法廷で暴かれるにつれ、ますます彼は、一部の俗悪週刊誌に頼る以外に術(すべ)がないのだ。

(56・12・27付)

 

山崎の陰険な手口、次々と

最近、檀徒の会合でも悪あがき

 “山崎事件”の第十六回公判が十四日、開かれた。この日は、検察側の証人として、宗門の光久諦顕尊師が証言。光久尊師は、日達上人が御遷化されるまで、永年、大石寺主任理事、御仲居として日達上人にお仕えしていた方である。

 証言によると、昭和五十三年一月十九日、山崎と常に連携を取り合っていた正信会の浜中和道が大石寺内事部を訪れ、山崎から依頼された学会非難の文書を、日達上人に手渡していたことを明らかにした。

 この文書が「ある信者からの手紙」といわれるもので、同日、行われた若手僧侶の集会で読み上げられた。これが、いわば、学会攻撃の作戦指示書とでもいうべき内容のもので、以後、学会攻撃の基本戦略にされていったのは周知の事実。つまり、山崎は表面上は宗門と学会の双方に取り入りつつ、その実、陰にあっては宗門と学会の離間工作を陰険に企てていたわけで、その下書き原稿を、山崎が書いていたこともすでに法廷で明らかにされていた。

 実は、五十三年一月といえば、前年秋からの努力により、宗門と学会の一連の不協和も一応、修復の方向に向かっていた。事実、一月二日には日達上人は、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌を目指し僧俗和合して進むとの「訓諭」も発せられている。

 ところが、山崎は、このような僧俗和合への道をつき崩そうと、この謀略文書によって、若手僧侶に学会攻撃をさせようと策したわけである。

 また証言によると、これまでも宗門と学会の間に問題が生じた場合、日達上人と池田会長(当時)との話し合いですべて解決していた。しかし、山崎が介入しだしてからは、池田会長が日達上人に御目通りし、和気あいあいの雰囲気であったにもかかわらず、その直後、山崎が“池田先生の言っていることは本心ではない”“懐柔を図っているのだ”など、日達上人に池田会長に対する不信感をもたせるような言動をし、問題をこじらせていた、ことも明らかにした。

 これにより、山崎が、日達上人に虚偽の話を流し「今後の作戦」「現下の情勢」などの謀略文書を使って、宗門と学会の離間工作を企てていたことが一層、明白になった。

 ところで、この山崎、今月十日に大分・竹田市の檀徒集会に顔を出している。会場となった伝法寺は例の浜中和道の寺。昨秋からの大分の学会同志の見違えるばかりの躍動ぶりに、檀徒の落ち込みがはげしく、あわをくって集会を企画したらしいが、県下から人をかり集めるのに四苦八苦だったとか。盛んにアジって士気をあおったらしいが、笛吹けど人は踊(おど)らず。はて、さて、彼らの空元気がどこまで続くやら。それにしても、信心に破壊し、刑事被告人である山崎に教えを乞う正信会の精神構造は、一体、どうなっているのか。断末魔のハッタリを聞かされる人こそいい迷惑だ。

(57・1・17付)

 

内藤原稿を恐かつの材料に

山崎、巧妙にマスコミを悪用

 “山崎事件”の第十七回公判が二十七日、開かれた。この日は、検察側の証人として月刊「現代」の元編集部次長の杉本暁也氏が証言。

 実は、昭和五十五年七月号の「現代」で、内藤国夫が学会誹謗の記事を執筆。その記事のゲラを利用して、山崎が五億円恐かつに及んだのは周知の事実。当時、その「現代」の編集部次長だったのが杉本氏であり、同証人は、山崎に“内藤記事”の初校ゲラを手渡すに至った経緯について明らかにしていった。

 山崎は、五十五年五月ごろ、数回にわたって内藤の取材に応じ、名誉会長及び学会の内部事情に関する虚実織りまぜた情報を流し、内藤に記事を書かせていた。

 当時、山崎は「シーホ