はしがき

 

 ここ数年における創価学会攻撃を見ていると、一つの特徴的な図式に気づく。それは、すでに種々の機会に指摘されているように、マスコミや法廷の場を利用しての、極めて悪質で狡猾なやり方だということである。これほど奸智にたけた手口は、他に類例をみないといってよい。

 その図式を描き、仕掛けているのが山崎正友、原島嵩であり、それに加担しているのが内藤国夫であるのは、今や周知のこととなっている。山崎の恐かつ事件や月刊ペン事件、あるいは宗門関係の訴訟等が進むにつれ、彼らの黒いからみや背景、意図といったものも、もつれた糸がほぐれるように白日のもとにさらされてきている。

 ところで、マスコミは社会の力ある公器であるといわれ、法廷は中立・公正な第三者の立場から物事を厳正・公平に裁く、誰人も冒しがたい聖域である。したがって、そこを通って社会に伝えられるものは、おおむね真実に違いあるまい、まさか嘘はあるまいとの思いが、世間一般の人々にはある。

 その思いに格段の根拠がある訳ではないのであるが、“活字”とか“権力”というものに対して、まだまだ抵抗力の乏しい日本の風土のなかでは、 ばく然とした、それでいて根強い、そうした認識がある。もっとも、もともとそうあるべきが、本来の正しい在り方でもあろうが。

 その何ともいえない微妙な心理、傾向を巧みに衝いて、ありとあらゆる画策を行なってきたのが、実は山崎や原島らである。そのために、必然的に彼らは、常に大義名分を掲げる必要がある。常にまことしやかな“社会正義”の旗を打ち振らねばならない。単なる造反者、退転者であってはならない。やむにやまれぬ告発者でなければならないのだ。被害者然として、弱者であるとの印象づけに躍起になるのも、そして未だに信仰心ありげに振る舞ってみせるのも、もとよりそのためである。

 そして彼らは今、被告人の言い分を存分に聞くという刑事裁判の特質を最大限に悪用して、驚くべき虚言とスリ替えを、ほしいがままにしている。それに一部のマスコミが加担し、一方的な記事をセンセーショナルに書き立てるという、まことにおかしな構図が出来上がっている訳である。

 その、虚言とスリ替えによって築かれた彼らの楼閣は、これまで聖教新聞のコラム「視点」でも、その都度、鋭く指弾されてきた。今回、こうして集大成されたものを改めて通読すると、なお一層、彼らの意図と構造が明白になり、理解に便である。

 所詮、いかに正義を装おうとも、悪は悪である。非道がいつまでも通用する道理がない。偽善者は必ず破綻するものである。そのことは、やがて法廷の場でも厳しく審判が下されるであろう。また、常識ある人であれば鋭く看破していくであろうことを、信じて疑わない。

弁護士 ■■■■

 

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