「教学上の基本問題」について(6・30)
二、血脈・途中の人師論師・大聖人直結
資料
「先師の御弘通」の「先師」とは、御本仏日蓮大聖人のことであります。したがって「日蓮大聖人の御弘通」そのままにということになるのであります。すなわち日蓮大聖人の正真正銘の門下であるならば、日蓮大聖人の振る舞いと、その精神を根本にすべきなのであります。それは、途中の人師、論師ではないということなのであります。途中の人師、論師が根本ではないということは、人師、論師の場合には、いろいろな時代背景のもとに、生き延びなければならなかったが故に、令法久住を願ってさまざまな知恵をめぐらした場合があるからであります。
(池田会長講演 聖教新聞52年2月17日付)
質問途中の人師論師とは誰を指すのですか。
答え「途中の人師、論師を根本とすべきでない」と表現したことについては、この人師、論師は唯受一人血脈付法の御法主上人猊下の御内証のことではありません。
我ら末弟は「日興遺誡置文」の「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と仰せのごとく、御本仏日蓮大聖人の御弘通のままにということを強調する意味でありました。その日蓮大聖人の仏法の正統の流れは、第二祖日興上人、第三祖日目上人、そして第六十六世の御法主日達上人猊下の御内証に流れていることはいうまでもないことであります。
したがって、こうした唯受一人の血脈に触れずに論ずるような表現は決して使わないようにしたいと存じます。
資料
遠くは、日蓮大聖人と日興上人という峻厳なる師弟の道がありました。
一切の法皆是れ仏法であるが故に、その原理、方程式を第二代戸田会長は、初代牧口会長を師として、創価学会の血脈の師弟の道をつくられた。
(原田稔学生部長指導 大白蓮華51年3月号)
質問戸田会長の悟達が創価学会の原点であると前来の各書に示しているに関らず、ここでは牧口会長と戸田会長の間の師弟の血脈があったとしているが、これは矛盾ではありませんか。
答え牧口初代会長と戸田第二代会長のあいだに師弟の血脈があったといった趣旨の表現は、あくまでも一次元として広宣流布達成への師弟の決意と約束と実践を通しての表現でありました。ただ、こうした場合、血脈という言葉は使わないようにしてまいります。
資料
暴悪な軍部権力の激しい弾圧の中で毅然と一歩も退くことなく御書と生死を共にされた牧口常三郎初代会長。獄中という最悪の環境の中で壮絶ともいうべき気迫で法華経と対決され、境涯を開かれた戸田城聖第二代会長。
そして民衆救済と学会厳護の戦いのため止暇断眠の実践行動を展開される中で何千枚、何万枚にもおよぶ原稿を書かれる池田現会長。こうした代々会長の姿の中にこそ、創価学会の教学の真髄があり、原点があるのであります。
(原田稔青年部長論文 大白蓮華52年2月号)
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この日我々は「本陣の男子部」として、日蓮大聖人直結の創価学会を厳護し、魔軍に指一本たりともふれさせない戦いを展開していくことを決意したのである。
(榎本雅人新宿区男子部長筆 大白蓮華52年2月号)
質問学会の原点が戸田会長の悟達であるというのにたいし、ここでは大聖人直結の血脈が述べられており、両者は関係がないのではありませんか。また、日蓮大聖人直結とはどういう意味なのですか。
答え「大聖人直結」ということについては、大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものであります。したがって、唯受一人、遣使還告であられる御法主上人猊下を通しての大聖人への直結であることは当然であります。
資料
「先師の御弘通」の「先師」とは、御本仏日蓮大聖人のことであります。
(池田会長講演 聖教新聞52年2月17日付)
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たとえば、先師牧口初代会長、恩師戸田会長が獄中の身となったことは、たしかに悲劇的な歴史であったにちがいない。しかし、大聖人のご遺命どおりの実践を貫いたその崇高な生涯が、今日の学会発展の遠因となっていることはまぎれもない事実である。
(池田会長講演「広布第二章の指針」第10集)
質問ここでは先師とは日蓮大聖人とありますが、また牧口会長にも使われている。すると大聖人と牧口会長は同じ意味になるのですか。
答え牧口初代会長を、一般用語として、一時「先師」と呼称したことがありますが、正宗では二祖日興上人が宗祖日蓮大聖人のことをいわれた言葉であります。したがって、第三代会長もすでに述べているように、恩師戸田会長と区別する意味で使用したことがありますが、今後ともに恩師と呼称し、初代会長を先師と呼ぶようなことのないようにしてまいります。
資料
血脈相承といえば、よく既成宗教などにみられるように、神秘的に高僧から高僧へ、深遠甚深の儀式を踏まえて流れるものであると思われがちであります。事実、最蓮房もそのように思っていたにちがいない。しかし、大聖人の仏法の本義はそんなところにあるのではない。我が己心の厳粛な信心のなかにこそあるといわれているのです。
大聖人の生命にある生死一大事の血脈を、私たちはどうすれば相承できるか。大聖人ご自身はすでにおられません。だが、大聖人は人法一箇の当体たる御本尊を残してくださっております。この御本尊から生死一大事の血脈を受けるのでありますが、それは剣道の免許皆伝の儀式のような、学校の卒業証書のような、そうしたものがあるわけではない。ただ、唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移すのです。というよりも、我が生命の中にある、大聖人のご生命、仏界の生命を涌現させる以外にないのです。
(池田会長講義「生死一大事血脈抄」大白蓮華52年6月号)
質問ここでは既成宗教に血脈相承があることをのべ、かつ大聖人の仏法の本義はそんなところ(高僧から高僧への血脈相承)にあるのではないと論じられているが、それは日蓮正宗に血脈相承があることを否定することともとれますがその意味なのですか。他宗でも血脈ということは言うが血脈相承とは言いません。また、法体の血脈相承と生死一大事の信心の血脈とはその意味に違いがあります。
しかるに学会で大聖人直結の血脈というところに、おのずから本宗の唯受一人の血脈を否定するかのようです。
そこであえて質問いたしますが、学会では生死一大事の血脈のみを血脈として、身延相承書の「血脈の次第日蓮日興」の文義を否定するのですか。
答え血脈については、法体の血脈と信心の血脈等があります。御書に「生死一大事血脈抄」があります。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」と仰せであります。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味であります。
この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯受一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せなのであります。ゆえに、代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の在り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となるのであります。
ゆえに、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたいと思います。
一昨年、発表された第三代会長の「生死一大事血脈抄講義」は、こうした原理をふまえたうえで、総じての仏法実践のうえでの生死一大事の信心の血脈を中心に、一般社会に展開したものでありますが、別しての法体の血脈相承について深く論ずることをしなかったために、誤解を生ぜしめる点もありました。これについては、第三代会長からの意向もあり、一部訂正して改訂版を発行しましたのでご了承をお願い申し上げます。
資料
一、こうした「本因」「本果」の法理を、我が創価学会の実践に当てはめてみるならば――戸田前会長は地涌の菩薩の棟梁として広宣流布の指揮をとられた。この時点では、牧口初代会長は本果の立場であり、牧口初代会長の遺志を受け継いで、七十五万世帯の達成を目指し戦われた戸田前会長が、本因の立場といえよう。これが創価学会の生死一大事の血脈である。
そして今度は、戸田前会長が一切の広宣流布の原理を示された。この時には、戸田前会長が本果であり、その戸田前会長が示した広宣流布の構想並びに仏法思想を世界に広め、時代即応して応用し実践していく私どもが本因となるわけである。
一、戸田前会長が示された広宣流布の構想も、皆さん方のお力を得て、一切実現することができた。更に、こうした広宣流布の流れのなかから、未来永遠の広布を展望して見るならば、今度は私が本果、北條理事長をはじめ副会長が本因の立場になるのである。
したがって、仏法にいささかたりとも独裁というものはない。すなわち必ず本因・本果、本果・本因という信心の血脈、学会精神の血脈がある。これが牧口初代会長以来の代々の会長であることを知っていただきたい。
(池田会長指導「前進」52年6月号)
質問本因本果とは本来仏法の法体に備わるものであり、本仏以外の個人個人にあてるべきものではありません。また文中の「独裁」ということと本因本果とはどういう関係があるのですか。
答え「本因本果の主」は、久遠元初自受用報身如来の再誕であられる末法御本仏日蓮大聖人の御事であります。また正宗においては、一往三妙に分けるなら、本果妙とは日蓮大聖人であられ、本因妙は日興上人、本国土妙とは大日蓮華山であります。しかし文底の三妙合論のうえでは御本尊のことであり、日蓮大聖人の御当体に備わるのであります。ゆえに、大聖人を本因本果の主といわれるのであります。この根本の本因本果の関係を一般的に我々の人間関係について使うのは慎むようにします。
なお「独裁」については、創価学会の運動が一人で全て行われるのでなく、支え合って遂行されるものであるゆえにこう述べたのであります。しかし、それを仏法の本因本果に結びつけて論ずるのは適切でなく、今後使用しないことにいたします。
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