「教学上の基本問題」について(6・30)
四、帰命・主師親三徳・大導師・久遠の師
資料
一、この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知ったのである。(後略)(中略)妙法広布の大願に身命を削る戸田前会長と生死を共にしていくとの、生命の奥底からの深く厳しい決意にたった実践。これが山本伸一青年の「革命は死なり」という意味であった。
(福島源次郎講義「小説人間革命第3巻に学ぶ」聖教新聞49年11月8日付)
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一、まさしく、現代における“人”への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また、池田会長が大聖人の御書を寸分違わず、身に移し実践されていることから考えても、必然的にそうなるのである。
(村野宏論文「ひのくに」10号)
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一、戸田先生のとらえ方が、“希有の師”なのです。“希有の師”という言葉が初めて出てきたのです。「希有の師への帰命」ということを、御義口伝をひっぱり出して読んだのです。いずれにしても、これはついていくというようなものではない。師弟不二だから、生命次元の問題だ、と。
(福島源次郎談「潮流」第9号)
質問御義口伝における人と法は釈尊と法華経であるが、本宗では人とは文底本因妙の釈尊で、法とは御本尊であります。しかるに学会では帰命する人とは戸田会長であり、また池田会長であるというのは、まさに戸田・池田会長が人の仏となります。戸田・池田会長に南無し皆に拝ませるというのですか。
また「大聖人の御書を寸分たがわず身に移し、実践されている」との言も行き過ぎであると思います。
答え一、「帰命」という言葉は、正宗では仏に対してのみ使う言葉であります。当初は「妙法への帰命」を大前提として「師への帰命」といっておりましたが、それが一部で「人への帰命」といった表現にまでエスカレートして、会長が本仏であるかのような使われ方がなされました。これは誤りであり、帰命という言葉を安直に使用しては絶対にならないものであります。
一、なお「ひのくに」については「会長が久遠の師」とか「会長の振る舞いが法でありそれに帰命する」「大聖人の御書を寸分たがわず身に移し、実践されている」等の趣旨のかなり逸脱の部分があったので、すでに廃刊処分にしました。
こうした内容表現は、今後絶対に使用してはならないことであり、「潮流」についても同じ考えであります。
資料
御書に「今日蓮等の類いは善の導師なり」(御書全集七一二n)とあるごとく、別しては日蓮大聖人こそ末法の大導師であられるが、総じて民衆を幸福へと指し導いていく指導者こそ、この「導師」「大導師」の今日的な謂でもあると明示。さまざまな世界の指導者のなかにあって、牧口初代会長こそ、真実の成仏即幸福の道を指し示し、広宣流布の大願へ民衆を導いていった指導者であり、大導師であると論じた。
(池田会長指導 聖教新聞52年6月2日付)
質問大導師にかんして総別を立てていますが、宗門では総別ともに大導師とは大聖人と血脈付法の日興上人等であります。
答え「大導師」という表現を使ったこともありました。御書に「日蓮等の類いは善の導師なり」とありますように、仏法弘通の人は「導師」であります。ただし「大導師」という言葉は正宗では総別ともに、大聖人と血脈付法の日興上人等であられます。ゆえに今後、たとえば初代会長を大導師と呼ぶような表現は使わないようにしてまいります。
資料
現在でいえば、社会それ自体。しかし民衆の犠牲のうえで成り立っている主徳を失った社会もあり、その民衆は不幸です。
真に人々を根底から幸福にするには、妙法を根底とした社会以外にない。全日本を、そして、世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえていらっしゃる。
師徳――眷属を指導する力
師とは、知識を教えるのみでなく、智慧を開かせてあげる者でなければならない。現代の教育は、知識に終始した師徳なき姿である。
以信代慧の妙法によらねば、真実の師徳はありえない。私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。
親徳――眷属を慈愛する力
親の愛は、相対的であり、子の発展をさまたげる場合がある。
身命を惜まず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ、親徳具備でいらっしゃる。
(「講師筆記試験答案」から 大白蓮華41年2月号)
質問日蓮正宗で主師親三徳のお方は日蓮大聖人お一人であります。
答え十数年前に、ある教学部講師が、筆記試験に際し、主師親三徳を現代生活のうえから説明するにあたって、第三代会長と結びつけた表現のものがありましたが、これら行き過ぎについて、今後十分注意してまいります。
資料
主師親の三徳は仏が備えている根本的資格であって、我々の九界の凡夫にはそうした徳はないとするのは大きな誤りである。なぜなら、九界の衆生も一念三千の当体であり、仏知見を具えているからである。その仏知見を開き示し悟らしめ入らしめるのが仏の使命である。我々にとって仏知見を開く鍵は何かといえば“信”に尽きる。以信代慧の原理によって、御本尊に対する尊敬すなわち信心によって仏智を開き顕わすことができるのである。そこには主徳も師徳も親徳も一切含まれている。
(宮本忠憲論文 大白蓮華47年5月号)
質問信心修行に関する指導の中で、あえて凡夫の我が身に主師親三徳が備わることを強調する必要はありません。我々は体の仏であり、我々凡夫が仏知見を開いたとしてもその処に主師親が備わるというのは行き過ぎであります。
答え正宗では主師親三徳具備のお方は、日蓮大聖人お一人であられます。第九世日有上人の仰せに「高祖日蓮上人ノ御抄ニハ、日蓮ハ日本国ノ一切衆生ノ親ナリト遊シテ候モ今ハ人ノ上ニテ候。但今ノ師匠在家ニテモアレ、出家ニテモアレ、尼・入道ニテモアレ信心無二ニシテ此妙法蓮花ヲ能ク進ムル人乃チ主師親也、能ク能ク心得ヘシ」とあるのは、総じての立場から述べられたと拝します。
したがって、信心修行に関する指導のなかで、あえて凡夫の我が身に主師親三徳が備わることを強調する必要はありません。我々凡夫が仏知見を開いたとしても、そのところに主師親が備わるということは行き過ぎであります。
資料
今、我々が「人間革命」を学ぶ意義も、この一点にあるといえよう。師が身をもって実践した真実の軌道をとどめたこの一書に、我々の行動の原理を求め、そこに学んだ精神を自身の原点として実践に移す、その往復作業の中に妙法への帰命、即具体的実践としての“師への帰命”の展開があり、自身の人間革命もまた一歩一歩進められるのである。
(福島源次郎論文 大白蓮華50年5月号)
質問妙法への帰命は当然でありますが戸田前会長にたいし帰命の語を使うことは行き過ぎであります。帰命するのは南無妙法蓮華経の御本尊の人法にであって、いかに自己の師であるとしても帰命というべきではありません。従ってそれは日蓮正宗を逸脱するものであります。
答えこれについては、31n下段の質問に対する答えで述べました。
資料
一、この決意に対して、ただ今拝読されましたごとく、久遠の師・池田会長より、メッセージが寄せられたのであります。
(北風清松九州長談「ひのくに」11号)
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一、師匠に人法があります。師匠の一つ一つの振る舞い、指導を通して、師匠の偉大さを知り、そして心から慕い、心から尊敬し、更にもう一歩進んで、帰命していこうと決意するに至ります。それは“人”であります。
その“人”としての師匠の振る舞いは一体いかなるものであるか、いかなるものから発せられるものであるか、それが“法”であります。まさしく、我々の師弟の道はその人法一箇としての師匠というものを、学び取っていかねばならないと私は訴えておくものです。
(福島源次郎談「ひのくに」11号)
質問文中「久遠の師池田会長」とありますが、本宗で久遠の師とは大聖人のことであります。故に池田会長が久遠の師なら池田会長は即ち大聖人ということですか?
また本宗で帰命とは人法一箇の本門の本尊への帰命ですが文中でいうように池田会長の振る舞いが法でありそれに帰命するということは日蓮正宗の教えと全く違っているように思いますがいかがですか。
答え第三代会長に関して「久遠の師」という言葉を使った場合がありますが、これは師弟の縁が深いことを述べようとするあまり行き過ぎた表現でありました。正宗では久遠の師とは大聖人のことであり、今後、こういう表現を用いないことにします。
*また「会長の振る舞いが法でありそれに帰命する」といった表現も、31n下段の質問に対する答えの中で述べた通り、明らかな逸脱であります。
資料
池田先生こそ本門弘通の大導師であります。私達は、かかる希有の師と会うことのできた福運をかみしめると同時に、必ず師の心にかなう弟子として生涯を貫き、学会総体に久遠元初の生命活動を確立し、広宣流布達成を決意するものであります。
(八矢英世論文 文集「教学と私」第一巻)
質問本門弘通の大導師とは大聖人日興上人であり、ここに日蓮正宗の血脈の意義があります。学会では池田会長がそうだというのですか。もしそうなら日蓮正宗とは全く異質となります。また、「学会総体に久遠元初の生命活動を確立し……」ということはどういう意味ですか。
答えこれらは明らかな誤りであります。基本的な考え方については、32n上段の質問に対する答えの中に述べている通りです。
資料
昭和三十八年頃の夏季講習会で、八矢教授(現壮年部長、師範)より「生死一大事血脈抄」の講義を受けたとき、「生涯、池田先生と生死一大事血脈抄でいこう。池田会長と境智冥合できる人材になろう」と強く訴えられたことは、強く私の脳裏に焼きついて忘れられない。
(平塚一雄述 文集「教学と私」第一巻)
質問池田会長と境智冥合というなら、池田会長は仏ということになりますがそうなのですか?
答え「境智冥合」とは、境とは御本尊であり、智とは信心であります。したがって、会長と呼吸を合わせることを境智冥合などと、安易に使ってはなりません。
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