「教学上の基本問題」について(6・30)
七、供養
資料
更に、この供養について、若干、歴史的なことを申し上げますと、前にもお話しした維摩詰は、在家の身でありながら供養を受けた事実が「維摩詰経」に記されております。(中略)つまり、供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります。
(池田会長講演「仏教史観を語る」大白蓮華52年3月号)
質問維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく、仏に捧げる意味であります。
ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外にない。
在家はどこまでも資生産業にはげみ、仏に供養すべきであります。
答え維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意味であります。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで供養を受ける資格があるのは仏以外はないのであります。したがって、在家が供養を受ける資格があるという記述は改めます。
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