「教学上の基本問題」について(6・30)

八、僧俗

 

 資料

●仏法に三宝というものが説かれている。いうまでもなく仏法僧の三宝であるが、この「僧宝」が問題なのである。「僧宝」と言っても僧侶を意味するのではなく、社会のなかで実践し「法」を正しく伝持する人々のことである●(中略)今日における「僧宝」つまり仏法実践者の組織としては創価学会があるのであり、その組織こそ、仏法を厳しき人間の打ち合いのなかで実践している「和合僧」なのである。

(聖教新聞「名字の言」49年5月27日付)

 質問

 日蓮正宗でいう三宝は法宝御本尊。仏宝大聖人。僧宝日興上人であります。また七百年来正法を伝持してきた僧を僧宝ということは当然であります。

 学会では「僧宝といっても僧侶を意味するものではない」として、日蓮正宗の三宝のたて方を無視し、自分達創価学会が僧宝であるというが、これは日蓮正宗の法義からは大変な逸脱だと思いますがいかがでしょう。

 これについて再度学会の意見をお聞かせ下さい。

 答え

 「僧宝」とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また第三代会長も発言しているごとく、唯受一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられます。従ってこの正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはなりません。また、広義においても、学会を「僧宝」という言い方はしてはならないことであります。

 

 資料

  しかし、その仏教も、時代を経るにつれて、出家僧侶を中心とする一部のエリートたちの独占物となっていくのであります。在家の供養で支えられた僧院の中で、学問的に語られるにすぎないものとなっていったことは、皆さんもよくご承知のところでしょう。(中略)これによると、在家はもっぱら唱題に励み、供養し、そのうえ、力にしたがって仏法を語るべきであるとされているのであります。僧侶がもっぱら折伏に徹し、三類の敵人と戦い、広宣流布するのに対して、在家は自身の成仏のため唱題し側面から僧侶を応援する立場である。その本義に立てば、現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。(中略)私ども学会員は、形は在俗であろうとも、その精神においては出世間の使命感をもって、誇りも高く……。

(池田会長講演「仏教史観を語る」聖教新聞52年1月17日付)

 質問

 この文では「在家の供養で支えられる僧院」と言いながら前に在家も供養を受けてよいと言うのは、何か話がチグハグなようです。このように一連の出家仏教を否定する表現から考えると創価学会では在家仏教を立てる方針なのですか?

 文中「その本義に立てば、現代において創価学会は在家出家の両方に通ずる役割を果している……、私ども学会員は、形は在俗であろうともその精神においては出世間の使命感をもって誇りも高く云々」とあるが、このことは結局学会幹部もみずから有髪の僧侶たることを認めているようであります。

 つまり創価学会は今の僧侶は駄目だとして自分の方の在家教団でやって行くという考えのように思われます。もしそうでないといわれるならば、日蓮正宗には七百年来僧侶が存在しているのですから、その意義を充分にわきまえたかたちでの発言をなすべきであると思いますがいかがですか。

 答え

 一昨年の一月十五日の第九回教学部大会における「仏教史観を語る」と題する講演については、仏教史を通して広宣流布をめざす学会の今日的意義を述べたものであります。

 今日、これだけの在家集団ができあがったことは、仏法史上、画期的なことであります。しかし、このことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことは、まことに遺憾であります。そうした考えはもとよりありません。

 

 資料

 やる気になってからの学会の座談会での指導は、鮮烈なまでに私の命をゆさぶった。ああ、惰眠をむさぼったこと二十八年。

 何といいかげんな、日蓮正宗の信徒であったか。このような慙愧の念は、ますます私を折伏、座談会、そして教学にかりたてていった。

 たしかに念仏を唱えるよりは、南無妙法蓮華経と唱えれば功徳はある。しかし、本当の宿命転換という大功徳は、創価学会に入って信心しなければ得られないのだ。これが、私の信仰体験である。従って私の入信は、昭和二十六年六月十五日。入信前の宗教、日蓮正宗なのである。

(北條浩述 文集「私の入信動機」)

 質問

 宗門からは右の文を挙げ「日蓮正宗軽視」とのご指南があった。

 答え

 かつて入信動機を語るに際し“正宗から学会へ入信”と記した表現がありました。これは、それ以前も正宗であったが、学会に入って初めて正宗の真実の信仰にめざめたとの意味であり、信仰の在り方の問題でありましたが、正宗と学会が別であるかのような印象を与える表現となってしまったことは遺憾であります。

 

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