◇「創価の世紀」の開幕

御本尊を謀略の道具にする日顕宗

 (「聖教新聞」平成5年9月15日付より)

秋谷会長 辻参議会議長 原田副会長 斉藤教学部長 高橋婦人部書記長 谷川青年部長


 高橋 今回の学会の御本尊授与は、皆大喜びです。広布の新しい時代の開幕を実感しているからです。

 原田 そうですね。授与のことが発表された第七十回本部幹部会のあった七日は、池田先生が本年の本部訪問百回目の日でしたし、新聞発表がされた八日も戸田先生の「原水爆禁止宣言」の記念日であるなど、幾つもの意義を刻む日でした。世界広布新時代のまさに夜明けの時を迎えています。

 谷川 それに対し日顕宗は謗法の坂をますます転げ落ちている。「大白法」号外では、今回の学会の御本尊授与を、以前の御本尊謹刻のことに結び付けて誹謗しているようですね。

 秋谷 そうらしい。しかし御本尊謹刻のことは、十数年前、日達上人が“今後一切言ってはならない”と院達を出され、厳しく戒められたことです。それを持ち出すことは、先師に対する大変な反逆になる。

 斉藤 その通りです。後で申し上げますが、そもそも御本尊謹刻は、日顕や藤本も言っていたように、仏法上また日達上人の御指南に照らして、謗法でも何でもないことなのです。

  当然だよ。日達上人の書写された御本尊を謹刻しても、日達上人の御本尊に決まってる。日寛上人の御本尊を御形木御本尊にしても、日寛上人の御本尊に決まってるじゃないか。その御本尊を謗法だとか、功徳がないとかいう日顕たちこそ大謗法だよ。

 高橋 その謹刻のことを利用して謀略で騒いだのが、山崎正友や正信会ですね。

  そうです。だから日顕たちは、正信会の猿マネをしていることになる(笑い)。

 谷川 そもそも日達上人が禁止されたことを破ったのは日顕でした。日顕は、今回の問題が起きた直後の平成三年一月六日の本山での会合で、この謹刻問題を学会攻撃のために使っていいという指示を出しています。それも、僧侶の話によると、新年の樽酒を開けてホロ酔い気分で号令したというんです。

  とんでもない男だ。日顕は最初から御本尊を謀略の道具にしようとしていたということだね。

 原田 ええ。「大白法」では、謹刻は日達上人の許可を得ていなかった等と、まず経過をごまかしています。そして“学会は日達上人のお心を踏みにじり、再び大謗法を犯した”などと臆面もなく書いています。

 秋谷 全く笑止千万だ。日達上人の心を踏みにじって、御本尊謹刻のことをまだ言っているのが日顕たちではないか。

  その通り。これ自体、大謗法だよ。

 秋谷 この件については、学会としては日達上人の指南に基づき発言を控えてきたが、ここまで先師を冒涜し、ウソを重ねるのなら、後々のためにも、ここで、御本尊謹刻の真相、経緯についても明確にしておきたい。

  賛成です。この問題は、学会が宗門を守ったのであって、学会には一点も非がなかったことを、是非明らかにしておきたい。あの御本尊の謹刻は、当時、間違いなく日達上人の了解も得たうえで謹刻したものなのです。

 秋谷 その通り。当時の経過について言いますと、昭和四十九年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。

 それに対し、日達上人からは、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありま

せん。紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」という趣旨の、お話があったのです。これが真相です。

  日達上人はこの他にも、「僧俗には、最高の技術をもって大御本尊を守護申し上げる責任がある」「御本尊を守り、法を守って永代まで伝えなければならない」等と、御本尊をお守りする信心の大切さについて、昔から折に触れ言われている。

 斉藤 もともと、紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われてきたことで、問題にする方がおかしいのです。例えば、堀上人は、紫宸殿御本尊を謹刻した板御本尊を拝んでいた。末寺でも、保田の妙本寺では十体、日向の定善寺では七体、紙幅の御本尊を写真にとり、謹刻している。宗門では紙幅を板御本尊にすることは、本来騒ぐことでも何でもないことなのです。

 原田 だから、学会も日達上人の了解を得て、昭和四十九年より、本部常住の御本尊など全部で八体の御本尊を、順次、板御本尊に謹刻申し上げたのです。そもそも、総監の藤本が「あれは、謗法ではない」と法廷で証言したではないですか。ところが、あの「大白法」によると、藤本は公の法廷でウソをついたことになる(大笑い)。それこそ大問題だ。

 高橋 全くそうですね。

 谷川 このことは、当時の問題をよく調べたといわれる河辺慈篤(北海道大支院長)も、昭和六十三年四月に行われた一般得度九期生に対する指導会で「正信会は御本尊模刻について大謗法だといっているが、そんなことはない。やはりこのことについても、日達上人からそのような御指南を得ていた。謗法でも何でもない。素晴らしいことだ」と説明しているということです。

 高橋 ということは、もともと問題になるようなことではなかったということですね。

 原田 その通りです。ここに昭和五十年一月四日付と、五十年七月十七日付の聖教新聞の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。

 谷川 この問題のおかしいところは、すでに公になってから二、三年経過した昭和五十二年ころから急に騒がれ始めたことです。後にいわゆる正信会となって宗門に反逆した若手坊主たちが、山崎正友と結託して意図的な学会攻撃の材料として、この謹刻を問題があるように仕立て上げたからです。

 秋谷 とくに、これが宗内でことさら騒がれた昭和五十三年当時は、若手が宗門執行部を突き上げ宗内は無政府状態で、宗務院と何を話してもすぐ若手に壊されるという状況でした。日達上人も大変に心を痛められていた時です。

 斉藤 そんな異常な宗内状況の中で、正信会に学会の謹刻御本尊のことを質問された日達上人は、昭和五十三年六月の教師指導会で「学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩しないように」と発言したことがあります。

 谷川 この中の、「それは私が知らなかった」という部分を今回の「大白法」は、だから法主の許可はなかった、という根拠にしようとしていますが。

 秋谷 そう、これもあの時の正信会の輩のマネをしているんだ(笑い)。正信会はこの発言を、学会の謹刻は事前の承認を受けていなかったということで利用しようとした。そして更にしつこく追及した。すると、別の時には、“学会から願い出はあったが、後で正式な申請の書類が出てくると思っていたが来なかったのだ”との説明がなされたりした。

  あの日達上人の話の結論は、「こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩しないように」というところにあった。つまりあれは、日達上人が、最終的に宗門も“了解し、承認したのだから騒ぐな”と、正信会を納得させ、問題を収めようとした発言だったのです。このあたりの日達上人の正信会僧侶に対する話を正信会が悪用し、問題をくすぶらせたともいえる。

 秋谷 そうです。しかし実際は、この書類の件も、当時そのような書面を出す指示もなかったし、そのための手続きや方式もなかった。それに、何より、日達上人が直接、池田先生に明確に了解されたことであり、それで十分であると私どもは考えたのです。それは当然のことでしょう。

 谷川 現に宗内でも、四国大支院長の安沢らが当時出した小冊子のなかで、学会の御本尊御謹刻については、日達上人が認可されたものだとハッキリ言っていますね。

 斉藤 そうです。その小冊子の中では、正信会の中心者が、早瀬日慈や日顕らの証言と問題の経緯を踏まえて、次のように言ったことを紹介している。「今こちら側でこの件をついてゆけばそれでは事実はこうと聖教で公表するだろう。かかる事態になれば、法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。故にこの件に関しては是以上言うべきでない。宗務院として強制力のある通達をもってこれを達しなければならない。この件に違反すれば宗制宗規に照らして厳正な処置を取らねばならないと考える」と。

 高橋 先ほど河辺慈篤が、御本尊謹刻は謗法などではないと言っていた話がありましたが、日顕はもちろん、あの河辺や安沢たちも皆、事実を知っていたということですね。

 谷川 先日ある僧侶から聞いたことですが、当時大方の宗門僧侶の間には、学会の御本尊謹刻が教義上の「謗法」だという感覚など、全くなかったというんです。それが騒ぎになったのは、坊主には、寺は板御本尊で会館は紙幅御本尊だから“寺の方が会館より上”という愚かな上下意識があり、その“差別”が崩されて、信徒が来なくなり御供養が減ることが怖かった。これが実は本音だったというのです。

  なるほど。宗内ではその程度だったのだろうね。それこそ御本尊は寺の配布物、販売物としか考えていない宗門の体質がよく出ている話だ(笑い)。この邪教そのものの心根の下劣さを、大聖人はどれほどお怒りになられることか。

 原田 さて、話を戻しますと、謹刻問題がにわかに大きくなる中で、学会としては、あくまで日達上人の指南に基づくべきであると考え、昭和五十三年九月二日のお目通りで、謹刻した御本尊についての御指南を求めたのです。

 秋谷 その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」との話をされました。私もその場にいて間違いなく聞いています。そして学会は、その通り、翌日の聖教新聞に報道しました。すると、活動家僧侶側は、今度はこれを材料に「また猊下は学会にだまされ、利用された」と、日達上人に詰め寄り、騒いだのです。

 高橋 日達上人がお目通りで話されたことを、そのように曲げて取るとは、よほど性格が曲がっていたのですね、当時の正信会も。本当に悪辣です。

 谷川 そのお目通りの後の九月末、最終的に学会は、創価学会常住板御本尊以外の七体の謹刻御本尊については、本山に納めました。これをとらえて、御本尊を返したのは学会に非があったからだ、などと日顕は言わせていますが、この真相はどうだったのですか。

 原田 その理由はただ一つです。実は、日達上人の娘婿で学会との折衝役になった大宣寺の菅野慈雲から、「猊下は活動家僧侶との板挟みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」という趣旨の話があったのです。

 学会としては、経過からしてこれに応じなければならない理由は何一つありません。しかし、とにかく宗内が反学会の活動家僧侶の決起で揺れに揺れ混乱している。したがって、こうした宗内の異常状態を収拾することが最優先課題でした。ゆえに日達上人を守るために、学会常住以外の七体の板御本尊を本山に納めたわけです。

 高橋 今から考えれば、信じられないほどの譲歩を学会はしたのですね。

 秋谷 結局、これも日達上人を守り、僧俗和合をしようとの思いからです。だから、板御本尊を本山に納めた直後、日達上人に「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これでは全く困ります」と申し上げたところ、日達上人は「分かった。それでは院達を出します」と言われ、これらの経緯をすべて踏まえ、昭和五十三年十月三日付の院達を出し、「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」とされたのです。

  もう一つ言わせてもらいたい。あの院達の後の、昭和五十三年十一月七日に本山で行われた代表幹部会で、私の話の中で、「不用意に御謹刻申し上げた御本尊」という表現があります。しかしあれも、当初の私の原稿にはなかったのに、幹部会の直前の前夜になって、宗門側の強い要請があって、“不用意”という言葉を挿入させられたんだ。

 谷川 それはどういう理由からだったんですか。

  宗門側の言い分は、これを入れてくれないと、騒いでいる反学会の活動家僧侶が納得しない。彼らが納得しない限り、学会がこの「十一・七」でいくら僧俗和合のための方針を徹底しても事態の収拾にはならない、というものだった。まことに不本意ながら、僧俗和合実現のためにやむをえず、ああした表現になったのです。

 秋谷 当時の異常な宗内状況のため、以上のような複雑な経緯をたどったが、ここでも分かるように、御本尊の謹刻は、法義上も、また本来、手続き上も何らの問題もなかったのです。日達上人自身の指南にもある通り、あくまで御本尊を大事にしたいとの信心の上からなされたものです。

 斉藤 そうですね。本来、創価学会が大聖人の「信心の血脈」を継承する、真の「和合僧団」であるということからも、全く問題となることではないですね。

 秋谷 そう。それが“大問題”のようになったのは、宗内が、正信会や山崎正友に蹂躙されるという事態の中で、学会攻撃の作戦として“為につくられた”材料だった。これこそ、全く罪ないことで、学会に黒いワナを仕掛けた、中世暗黒時代のような聖職者による謀略だったのです。(つづく)

 

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