なんとむなしき嘘で作り上げた証言

(56・10・29付)

  「月刊ペン事件」の裁判が二十六日、開かれた。この法廷には、毎回、いわくありげな、滑稽(こっけい)な証人が次々と。今回登場したのも退転者であり、前回の小沢某と檀徒として行動を共にしている飯野某という老女。

 この飯野某、昭和二十九年秋、埼玉のM宅で小沢と一緒に名誉会長を見たというのだが、ストーリーも同じなら言葉遣いも全く同じ、口裏を合わせたことは明瞭。丸暗記したことを必死に話すのだが、一歩、問題が予定のストーリーからはずれると、途端にしどろもどろ。あげくの果てに小沢証言が作り話であることを次々と証明していくはめになった。

 数えあげればきりがないが、その一つに。名誉会長には、それ以前にいつ会ったことがあるのかとの質問に――二十八年暮れ、某中学校講堂の指導会で遠くから見たことが一回ある、と。

 それだけでは、暗い部屋の中で、しかも瞬間的に垣間見るだけで識別できないだろうとの質問に――。

 自分の家の仏間には、名誉会長の大きな写真を額に入れて飾っていたので良く知っていた、と。その写真は大白蓮華か聖教グラフから切り取って使った、と証言。

 裁判長から「戸田会長当時、参謀室長の写真をどうして掲げたのか」と聞かれ、嘘がばれてしまう。

 この“目撃”が明らかな嘘であることを裁判所は鋭く見破っているに違いない。

 だいいち、二十八年の暮れに、そんな指導会はない。名誉会長が行った事実も全くない。当時、聖教グラフは創刊されていない(創刊は三十四年)。また大白蓮華にそのような写真が掲載されたこともない。

 この一点を見ても、すべてが“偽証”であることは明々白々である。

 飯野某、証言に立つまで小沢と相談したことは決してないといいながら、問い詰められて「実は十月八日に会った」と自白。そして「間取り図は小沢と相談して作った」とも。よって、二人の証言が共謀してねつ造したものであることが見破られた。

 そもそも、二十九年当時、二人が語る問題の部屋はなかった(家族の言)ので、目撃した話がすべて嘘であることがはっきり証明されたのだ。

 なお、亡くなった人を名指しで利用し、聞いたとか、言ったとかの嘘八百には笑いが止まらない。

 当時、M宅は人通りの多い文房具店。地区拠点でもあり、夕方どきは人の出入りが激しかった。そのうえ古い家で戸をあけるとガタピシャと音がするありさま(当時の幹部の言)。

 しかもお手伝いさんがおり、そのような虚言がいかにでたらめであるかは論をまたない。これらは検察側の証人が登場すれば、いっぺんに明確になることだ。

 名誉会長は当時からすべての青年を弟のごとく妹のごとく大切にはぐくんでいた。そして参謀室長がどこへ行っても心から慕い、尊敬する数多くの青年がはせ参じていたのが現状だった。

 加えて、当時から名誉会長宅の仲むつまじい家庭の姿は、全会員の模範であり、誰人もよく知っていたことである。

 親分格である小沢某の家庭内の複雑さが、目に余ることは、今や周知の事実。また、小沢は、何かの理由でM宅との確執があったことも事実のようだ。

 彼女らが、裏で策士に教わりながら、手をかえ品をかえ虚言を弄する姿は、おもしろくも、滑稽である。

 

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