正体暴かれた原島の虚構

動かぬ証拠にむなしい反発

(57・2・4付)

 つくった話は、必ずボロが出て崩れる――これを如実に証明したのが、ペン裁判での原島証言だった。

 原島は、すでに報じた通り、この法廷で、数々のデタラメ証言を展開したが、何故、彼の証言がいい加減であったのか――いうまでもなく、事実無根の名誉会長のスキャンダルを、事実に仕立てようと工作したからだが、肝心の話を、全部、自分の、つくり上げた“記憶”を唯一の根拠に何年も前の話を仕立て上げれば、なんとかなると思ったからでもあった。

 原島は、すぐに真実らしそうに、昭和三十二年の正月とか、四十五年二月上旬とか、古い話を持ち出して、さも自分の話に根拠があるかのように証言した。

 ところが、裁判官から「あなたは、そんな古いことを何故に、はっきり記憶しているのか。その根拠となるメモなり、記録があるのか」と、ただされた。

 これに対し、原島は「メモをしているわけではない。ただ鮮明に記憶しているだけです」と、なんら客観的な資料も裏付けもないことを白状した。

 たとえば、原島の証言で、一番重要な部分である上田副会長との昭和四十五年二月上旬の箱根研修所での会話の件など、その典型であった。

 そもそも、上田副会長は、原島と、彼のいうような会話など全くしていないことは、幾つもの動かし得ない裏づけで明らかとなっているが、まず、検察官から二月上旬という日程はいつかが問いただされた。

 これに対し、原島は「いつかは分からない。ただ上旬という記憶は間違いない」の一点張り。

 そこで検察官から、原島の証言内容から吟味して、当時、原島と一緒に行動していた上田副会長、桐村教学部長の当時、記録した“メモ”、及び、名誉会長の行動を当時克明に記録したノートが証拠書類として提出された。

 それらによると、原島の証言内容からいって、その二月上旬とは、いずれも「二月十一日」と判明。

 ところが、原島は、こうした動かせぬ資料に対しても「自分の記憶と違う」「その資料は、後から作ったもので信用できない」などと、誰かに知恵をつけられたのか、見えすいた言い逃れに終始。証拠資料が当時のものか、後から作られたものか、鑑定すれば、おのずから明らかになる。

 では、その唯一の根拠たるべき彼の記憶によれば「二月上旬とは具体的にいつのことか」と検察官に聞かれると「それは分からない」という始末――これで結局、この話もつくった話であり、上田副会長との会話もなかったことが明白になってしまったわけだが、日付を確定されると、彼の証言が根底から崩れるため、必死に逃げていたことは、誰の目にも明らかだった。

 もし「二月十一日」と確定すれば、彼は、上田副会長と話したという「その日の午後」には、箱根にはいず、東京にいたことが当時の聖教新聞等で明白になってしまうからであった。

 一事が万事、具体的な証拠書類を示されると頭から否定し、自分の記憶だけが正しいと言い張る妄想癖の原島。今まで売りまくった週刊誌へのデッチ上げに困って、言い張ったのか、とは傍聴席のある記者の弁。そんな見えすいた“作り話”で裁判所をだませるとでも考えたのだろうか。

 だから、世間知らずの精神的未熟児といわれるのである。

 

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