山崎の作り話、全て崩れる
検察官より動かぬ証拠に唖然
(57・3・16付)
山崎正友の悪徳ぶりと、デタラメな作り話や証言は、日に日に明るみに出てきているが、十二日に開かれたペン裁判においても、山崎の悪質な嘘が完全に暴かれた。
前回(二月二十五日)の反対尋問の時にも「池田会長の女性問題は事実無根」と、山崎自身が書いた五十一年三月九日付の報告書でタジタジになった山崎だが、この日の公判でも、検察官から、厳正な捜査にもとづく動かぬ証拠を突きつけられ、ボロが続出。彼のデタラメ話はすべて崩れてしまった。
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この日のハイライトは、山崎の作り話の最も中心部分である昭和四十五年四月下旬、箱根研修所でのことに関する検察官の鋭い尋問だった。
この四十五年四月下旬というのは、原島もこの裁判でウソを述べていたのだが、山崎もこれに口裏を合わせて、総会の原稿検討のため箱根研修所に呼ばれ、その翌日午前、池田会長の部屋に呼ばれた時、原島と一緒に“赤いもの”を見たという全く偽りの証言をしていた。
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検察官が「四月下旬というが、日にちは特定できるか」と質問。
山崎は「十九日か二十六日の日曜日だったと思うが、明確におぼえていない」と。
日付が確定されると、彼のウソがばれてしまうことを、彼自身が一番よく知っているのだ。
そこで、検察官は、昭和四十五年当時の山崎自身の手帳を突きつけて「この手帳の四月十九日欄に『ハコネ』と記載されているが、おぼえがあるか」と追及した。
山崎は思わぬ自分の手帳を示されて、一瞬ギクリとしたが「この手帳は私のもの。書かれている字も自分の字だ」と認めざるを得ず、結局、山崎が箱根に行った日が「四月十九日」と確定した。
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次に、検察官が「するとあなたが“赤いもの”を見たというのは翌日の四月二十日ですね」と確認したあと「あなたは箱根に泊まったのではなく、他の弁護士らとともにマイクロバスで東京に帰ったのではないか」と尋問。
これに対し山崎は「イヤ、箱根に泊まった」と言い張った。
そこで検察官は、山崎自身のかつての法律事務所に保管されていた「昭和四十五年の領収書綴」を示した。これは、山崎の各種経費の領収書を当時、彼の事務所に勤めていた経理担当の女性がつづっていたもの。その「領収書綴」になかには、山崎が箱根に泊まったといっている四月十九日付の旅館「花汀」という請求書があったのだ。
この「花汀」は、麻雀好きの山崎が、四十五年当時からよく利用していた東京神田の旅館である。山崎自身、ここを何十回となく麻雀で利用していたことを認めていた。
検察官が、その四月十九日付「花汀」請求書を示し「あなたは、十九日夜、神田の『花汀』で友人と麻雀していたのではないか」と鋭く尋問。
山崎は、その請求書を見せられ一瞬、虚をつかれたように目を白黒、しばし絶句。ようやく「これは自分で使用したかどうか分からない」と逃げるのがやっとだった。
しかし、当時、山崎の事務所にあって、麻雀などの伝票を「交際費」の経費として計上できたのは、山崎以外にないことは関係者の一致するところ。山崎は、実際には東京で麻雀をしていながら箱根に泊まっていたなどとウソの証言をしていたことが、はからずもこの自分自身の残した証拠書類で露呈してしまったわけである。
この一点だけを見ても今までの週刊誌をはじめ最近の彼の手記等が誰も信用するものがないとはいえ、すべて作り話であったことが明白となった。
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それにしても、手帳といい、領収書綴といい、いずれも自分の残した資料が、自分の嘘を証明することになった山崎。かつては学会の資料を原島と盗み出して、学会を攻撃した罪が、厳正な法廷でかくまであらわれてくるとは、なんたる皮肉な因果であろうか。
嘘はどこまでいっても嘘。厳正な法廷では、そんな虚構が通ずるわけがないことを、余りにも象徴的に示したペン裁判であった。
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