つじつま合わぬ山崎の嘘

インチキ証言、次々と明るみに

(57・3・17付)

 月刊ペン裁判(十二日)では、山崎のウソが、検察官の追及によって次々と崩されていく。

 山崎は、先の弁護人による主尋問で、昭和五十一年当時、月刊ペンが発行された直後、学会では問題とされる恐れのある女性を、急きょ、転居させて世間の目をゴマかそうとしていた、などとヌケヌケと話していた。

 これもすべて原島らと工作し、うまく作ったつもりであろうが、結婚すればだれだって主人の勤めている先に行くのが全く自然なことである。

 この日の公判では、山崎は検察官からこの点を鋭く追及されるのを予知してか、自ら裁判官に発言を求め「東海研修所の女性職員が、結婚、移転した時期については私の記憶間違い。昭和四十七年から四十九年にかけてのこと」と、自分の証言の誤りを認めて訂正した。

 偽証逃れの訂正は明らかだが、こう訂正すると、彼が主張した世間の目をごまかすための転居など全くなかったことが明白になった。

 そこで、裁判官が「では、その女性職員の話は月刊ペンの記事やその告訴とは全く関係ないことですね。それでは、あなたの言うところの学会が行ったという女性への対策とか工作は具体的にはどういうことなのですか」とただした。

 山崎からは、もちろん、なんら具体的な話などでようはずがない。利用できるものがあれば、他人の結婚でもなんでも使って疑惑を仕立て上げる冷血漢。単なるウソということではすまされぬ重大な人権問題といわねばならない。

 また、山崎は、さきに加住研修所で女性と風呂に入っていたなど、俗悪週刊誌向けの彼一流の下品な作り話をヌケヌケとしゃべっていたが、これも真っ赤なウソ。

 もともと山崎は、ペン裁判の冒頭で「私には目撃事実はない」と証言しているのである。これも後で口からでまかせに作った話であることは明瞭だ。検察官から、その矛盾を追及されて、なんら具体的に答えることができなかったのも当然のことだ。

 だいいち、いつの日かと聞かれても、ただ昭和四十九年ごろというだけで、月日はあげられない。揚げ句の果ては、古い話なので憶えていないの連発。しかし一方では、これよりも古い四十五年については、四月下旬とかなり具体的に述べているのだから、だれがみても意図はミエミエ。

 検察官が、さらに具体的に風呂場のガラスについて追及しようとすると、さすがに裁判官も「もう、それ以上はいいですよ」と、全く、この話を問題にしていなかった。

 さらに、昭和四十七年十一月一日の件。原島はこの日夜、上田副会長から悩みを打ち明けられたと、偽りの証言をして、先の公判(一月二十九日)で、検察官、裁判官から厳しく問い詰められ、ウソがバレてしまっていた。

 今回の公判で、その裏付けが一段と浮き彫りにされた。実は、この日夜、上田副会長とあったなどとは真っ赤な嘘で、原島は山崎と一緒に六本木で酒食し、酔いつぶれていたのである。

 この点につき、検察官は、四十七年の山崎の「領収書綴」の中にある六本木のレストランの十一月一日付領収書を突きつけ追及。その都度、山崎は苦しい言い訳に終始しタジタジの様相で、明確に否定できなかった。

 さらに、山崎が総会当日についても「原島は前夜、ボトル一本あけたので倒れたのだ。これは俺しか知らない」と意味ありげに周囲の人に語っていたのを聞いた人もおり、また、その数日後、銀座のクラブで「原島は、本当は六本木で飲みすぎたんだ」とも聞いた証言もある。

 山崎、原島が、見たとか聞いたとか、卑劣な作り話を、こともあろうに厳正な法廷で無責任にしゃべり、さんざん週刊誌で騒ぎたててきたが、いくら彼らがウソつきの天才でも、いつまでも真実をおおい隠せるものではない。

 当然のことながら馬脚をあらわし、彼らのウソなど誰も信用する人はいない。彼らの、悪党を通り越して悪魔のねたみ狂った姿は、万人の目に明らかである。

 

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