忘れ去られまいともがく内藤

支離滅裂な言動こそ“社会悪”

(57・5・9付)

 月刊ペン裁判でのデタラメ証言で自ら墓穴を掘ってしまった山崎、原島、内藤の三人組。そのショックからか、しばらくおとなしくしていたようだが、一部の週刊誌、雑誌でまた悪あがきを始めた。

 彼らは、学会や名誉会長を槍玉にあげて非難していく以外に生活の糧がないのであろうか。それとも社会から忘れ去られるのを恐れて自己宣伝の手段としているのか。いずれにしても卑しい性根の持ち主である。

 こんなくだらないものに対して筆をとるのもばかばかしいが、放置しておけば、それをまた材料にして幾倍にも増幅していくのが彼らの常とう手段である。ゆえに、事の真実をはっきりと指弾しておこう。

 内藤国夫は、先の月刊ペン裁判での支離滅裂な証言により、ジャーナリスト失格を自ら露呈し、トドメを刺された格好だが、あきらめきれずに某雑誌で泣き事を並べている。彼云く。「証言内容に、もし、あいまいさがあったとすれば、情報源の秘匿に関してだけである」と。

 内藤が“情報源の秘匿”とかいって体裁をつけてゴマカスのは結構だが、少なくとも、何の事実確認、取材もせずに平気で記事にするとはどういうことか明確にするべきである。愚劣な記事を雑誌にダラダラと書いて行数(それとも原稿料?)をかせぐよりも「ジャーナリストのモラル逸脱」「人権の侵害」「非人間性」等の内藤批判に少しでもまともな反論をしたらどうか。

 たとえば、誰々の子供がどうだこうだと邪推して平気で人権を踏みにじるようなことをしておきながら、血液鑑定書で内藤のウソが暴かれると、彼は某誌で「紙片れ一枚で、たじろいだりするものか」と反論にならないお粗末な言を弄するばかり。自らの事実誤認が明らかになったら“筆を折る”との潔さでも披露すれば、と思うのだが、そんな気骨を求めるのは所詮、無理なことだろう。

 また内藤は、関西青年平和文化祭についても批判しているが、広島、長崎市長をはじめ多くの来賓の声を罵倒して、よりによって文化祭を見てもいない「継命」の妬み記事を信頼すると公言している。揚げ句の果てに、練習中の事故と称して中傷記事を書いているが、病名、日時、事実経過まで全てデタラメ。取材、事実確認などした形跡が全くない。まさにブラックジャーナリストに転落した哀れな姿だ。そんな記事が平然と掲載されるのだから、雑誌編集部の無責任さにもあきれ果てる。

 また内藤が、ある雑誌で対談しているが、その内容たるや、まるで羽をとられた“蚊”のようにあちらこちらに八つ当たりしているこっけいな姿。学会と大新聞の関係を感情論でうんぬんしているようだが、内藤のごとく「新聞倫理綱領」を逸脱して退社した“転落記者”の言など、誰も信用しないし、相手にしていない。

 ある作家が「世間というものは不合理な噂を好む、ありそうもない事であればあるほど、それを喜んで信じようとするものである」と。しかし「眼のある人間が読めば、それらの戯文が虚構だということはすぐにわかるだろう」ともいう。まさに、学会、名誉会長に対する非難、攻撃の卑劣さを見抜いていく視座である。

 最近、内藤ばかりか原島までも、俗悪週刊誌に登場して、国連軍縮特別総会のことを薄っぺらな言でうんぬんしているが、青年部を中心とした学会の平和運動、名誉会長の仏法者の平和行動を少しでも知っているものからすれば、全く論外である。内藤、原島よ、見せかけの“社会正義”で自分を飾るよりも、自らの卑しい性根、だらしない生活を正すことが、余程、社会のためである。

 

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