「三畳間の存在なし」を証明

航空写真等の証拠でも明らか

(57・5・23付)

 月刊ペン裁判が二十一日、東京地裁で開かれた。第十七回を迎えたこの日の公判から、いよいよ検察側の反証が始まった。

 これまでの公判廷では、被告人・隈部側から八人の証人が出廷して、卑劣な作り話やデタラメな証言を繰り返し、新たなスキャンダル騒ぎを起こそうとしてきたが、その都度、検察官の反対尋問、裁判官の尋問によって、作り話が次々と突き崩されていった。

 もともと、この裁判では、被告人、弁護人側に立証責任があるにもかかわらず、これまでの公判廷をみるかぎり、むなしい証言ばかりで当然のことながらその立証はまったくなされていない。それどころか、検察側の反証をまつまでもなく、学会、名誉会長等に対するスキャンダルがすべてねつ造されたもので、全くの事実無根であることが証明される結果となった。

 今後、検察官の反証によって、被告人側証人の証言それ自体が、いかにデタラメなものであるかが具体的事実をもって更に次々と証明されていくことになろう。

 この日、検察側の証人として、これまでの被告人側の証人のデタラメ証言に鋭く反証していったのは、昭和二十九年当時、大宮地区(埼玉県)の地区拠点であった松島家の家族や家事手伝いとして同居していた人たち。

 この地区拠点に二十九年秋、名誉会長がきて、ここの三畳の部屋で云々と、被告人側の証人は作り話をデッチ上げて喧伝しているのだ。ところが当時、そんな三畳の間など、松島家にはなかったことが、この日の証人たちの証言で明確に論証されていった。被告人側の証人は、見たこともないことをあたかも見たかのごとく、つじつまを合わせて芝居気たっぷりに語っていたが、この日の証言で、ものの見事に、その根拠がくつがえされていったわけである。

 この日は、まず当時をよく知る二人の証人が証言。そのうち、高根美枝さんは、二十九年九月から十一月にかけて松島家に同居していた婦人である。

 検察官が「当時、松島家に三畳間があったか」と尋問したのに対して、高根証人は「私が松島家にいた頃には、三畳間はなかった」と明確に証言した。

 続いて、二十九年十一月から三十二年八月まで松島家に家事手伝いとして住み込んでいた米山美枝さんが証言。

 検察官は同じく米山さんに対しても「当時、松島家に三畳間があったか」と尋問。米山証人は「二十九年には、三畳間はなかった。その後、三十年春ごろ、松島家が改築されてから三畳間ができた」と証言した。そして、高根、米山証人は、いわれるところのスキャンダラスなウワサなど、当時もなかったし、また、全く考えられないことである、と述べた。

 二人の証人に続いて証言に立った松島家の長男である淑(きよし)氏は、検察側の尋問に答えて「昭和二十九年、私はまだ中学二年生だったが、三畳間など当時なかったのを明確に覚えている。三畳間ができたのは翌三十年の春三月に増築した時である」と証言。

 すると検察官は「どうして、そのことを覚えているのか」と質問。

 淑氏は、当時を振り返りながら語った。

 ――自分の家は平屋建てでもともと手狭なうえ、地区拠点で連日のように多くの人の出入りがあり、そのため、夜、自宅で思うように勉強もできなかった。会合のある時など、風呂場でノートを広げたこともある。

 それで中学三年にもなるし、本格的に受験勉強を始めなければならない。そこで自宅を増改築し、三年に進級する四月を前に三畳間を作ってもらったので、明確に記憶している。

 また、三十年四月には、父が初めて市議選に立候補したときであり、そのことも考え合わせての増改築であったので、私の記憶に間違いはない――と。

 さらに検察官は、昭和二十九年当時、松島家に「三畳間」が存在しないことを客観的に裏付ける証拠として、昭和三十年二月、大宮市発行の「一九五五年版大宮市勢要覧」を提出。その要覧に掲載されている航空写真のなかに松島家が写っていた。それによると、屋根の形からしても、増築前の松島家であることが明確であり、当時、三畳間が存在していなかったことが証明された。

 検察官は、この市勢要覧と併せて増築後の松島家の写真を示して尋問。松島証人は「増築後の屋根の写真とくらべてみても分かる通り、航空写真に写っている家の屋根の形が増築前のものであることは明確である」と証言した。

 この検察証人の明瞭な証言と歴然たる証拠写真によって、被告人側証人が「二十九年秋、三畳間で云々」といった証言が全くのデッチ上げであったことが、だれの目にも明らかになった。

 

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