山崎が“原点”だった覚醒運動

“正信会”にも黒い金

(56・12・20付)

 “山崎事件”の第十五回公判が十五日、開かれた。この日は、検察側の証人として大豆生田(おおまめうだ)勝美氏が証言。山崎のもとで働き、彼の秘書役や車の運転もしていた同証人は、山崎の陰謀を次々と明らかに。

 まず、山崎と“正信会”悪侶達との関係。最近“正信会”の連中は、機会あるごとに山崎との黒いつながりを否定しているが、結局、彼らの運動を陰で操り、宗門と学会の離間工作を企てていたのは、山崎であることが今回の法廷で動かせない事実となった。

 証言によると、山崎は、昭和五十二年ごろから、正信会メンバーの浜中和道(大分県で反学会活動をしていた中心者)が上京してきた折、その都度、十万円ぐらいの小遣いを渡していた。

 大豆生田証人は「山崎の命令で秋葉原にテープレコーダーを買いに行き、浜中に二回渡した」と証言。山崎が、浜中に小型のテープレコーダーを買いあたえ、さまざまな情報を収集するように指示していた、と。同証人は「浜中が山崎の事務所に持ち込んだテープを何回もダビングした」と証言した。

 また山崎は、浜中を使って反学会の情報を正信会の連中に意図的に流し、各地で檀徒達に吹聴させていた。

 この浜中、山崎の指示により、原島が盗み出した資料・段ボール箱十三個を自分の寺(大分の伝法寺)に密かに保管していたことは周知の事実。この時、山崎から三百万前後の“黒い金”が浜中に渡されている、という。

 また証言では、山崎が、正信会の中核である山口法興(僧籍はく奪)と組んで反学会活動をしていたことも明らかに。昭和五十四年秋には、原島が盗み出した資料を分類、整理して、主要なものを同証人にコピーさせ、何回も山口の寺に運ばせていた、と。そのなかに、いわゆる“北條報告書”もあったと明言。

 山口は、妙真寺の御講でこの資料を見せ、学会批判をしていたばかりか、これを全国の正信会の連中に流し、反学会攻撃の材料にしていたのである。

 山崎はこれまで、原島の盗んだ資料はあずかっていただけと弁明していたが、今回の証言で、山崎が山口らとはかって資料を流し、反学会攻撃をしていたのは明らか。また山崎のウソがばれてしまった。

 さらに証言によると、山崎は「継命」の記事を何回も書いては、彼が使っている女性事務員に清書させ、同証人に命じて、山口法興のところへ届けさせていた。なかでも、昭和五十五年一月十五日付の「継命」一面の“道標”は山崎の執筆によるもの。山崎は愚かにも、同証人にその「継命」を見せて“どうだ、すごいだろう。オレが書いたのだ”と得意気に話していたことも明らかになった。

 「正信覚醒運動の原点」と題したこの“道標”は、あたかも“正信会”の僧が書いた体裁にしてあるが、タイトルからも明らかなように“覚醒運動の原点”は、信心の破壊された山崎だったとはなんともおそまつな話である。

 一連の正信会の狂った言動の背後に、やっぱり山崎がいた。

 

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