山崎による陰謀の手口
怪文書で宗門の離間企てる
(56・12・21付)
刑事被告人・山崎正友に対する裁判(十五日)の大豆生田(おおまめうだ)証言で明らかになった、山崎の悪質な陰謀の手口を、前回に続いて紹介したい。
そのひとつは、山崎と原島の黒い金で結ばれた関係――。山崎は、大豆生田証人に指示し、昭和五十三年から五十四年にかけ、たびたび、二、三十万円を原島に渡していた。
同証人は当初、原島の自宅に金の入った封筒を届けていた。しかしある時、彼が留守で原島夫人に渡したことがある。その直後、原島が「女房に知られたらまずい」とおこって、同証人に偽名を使って連絡をとるように指示。以降、原島の指定した場所で、山崎からの金をひそかに手渡していた、と。また、山崎が、事務所近くの店で、原島に高級背広を買い与えていた、とも証言した。
◇
また証言によると、昭和五十四年九月下旬、原島が本社から資料を盗み出し、山崎の事務所に運ばせたことが確認された。同証人は、山崎のおかかえ運転手・田中某が運んできた資料を見て、山崎が「学会攻撃のミサイルだ、ミサイルだ」とはしゃいでいたことを目撃している、と。
実は山崎、盗み出し資料を運ぶさい「キャデラック(山崎の車)では目立つから」と田中運転手に指示し、大豆生田証人の車であるホンダアコードで運ばせた。そして資料を盗み出した原島に二千万円の金を渡していたのである。
原島は“正義の告発者”気取りで恥ずかしげもなく俗悪週刊誌に登場しているが、一皮むけば、山崎に金縛りにされ、酒と女に狂っている醜態をあばかれるのが怖かったのである。
◇
さらに山崎が宗門と学会の離間工作を企てていたことも証言された。山崎は、昭和五十二年から、大石寺の東京出張所に、十数回、日達上人を訪ねていた。その際、山崎は、大豆生田証人に「ここに来たことは黙っていろ。学会幹部には内緒だ」と口止めしていた、と。また、昭和五十三年五月ごろから、山崎は、東京のS病院に通院してくる日達上人を訪ねていたが、同証人に対し“人に見られないように地下駐車場に入れ、学会には内緒だ”と言っていた。
この証言からも、山崎が五十二年ごろから、学会には内密に怪しげな行動をしており、日達上人にとりいろうとしていたことが明らかになった。
◇
昭和五十四年秋、御法主日顕上人のもと新たな宗務院の体制が確立された直後、“エンマ大王”という名で宗務院批判の怪文書が大量に出回った。
この怪文書も山崎が書き、彼の事務所でタイプしたものであることが明白になった。大豆生田証人は“エンマ大王”という文字が印象に残っている、と。さらに、山崎事務所の女子事務員が白手袋を両手にはめて、怪文書を封筒につめていた。同証人が、ビラを手に取ると、彼女は“指紋がつくと困る”といって、あわててハンカチでその部分を消していた、とも語った。
五十四年秋といえば、すでに法廷で明らかにされているように、山崎が、学会を相手どった特別財務返還訴訟の訴状原稿を書いたり、いわゆる“謗法選挙ビラ”を書いた時期でもある。
裁判が進むにつれ、山崎の悪の手口が次々とあばかれていく。彼が、黒き野望をもって数々おこなってきた謀略は、大豆生田証言で動かぬものとなった。
●
見出し一覧へ●次ぎへ●