山崎を“我が同志”と正信会
檀徒達を金集めに利用
(56・12・27付)
恐かつ事件裁判で山崎正友の謀略が次々と暴かれているが、彼を取りまく一部の人間によって、最近「山崎正友を支援する会」なるものが発足した、という。
同会は、山崎を支援する名目で“カンパをお願いする”もの。檀徒などから金を集める魂胆がみえみえ。また、同会の事務局は、共産党系として有名な弁護士といわれる人物の事務所。この弁護士、山崎の恐かつ事件裁判では彼の弁護人になっており、さらに宗門裁判では正信会側の代理人にもなっている。
その“会報”には、例のごとく内藤国夫と佐々木秀明(僧籍はく奪)が登場。なかでも佐々木は「山崎を我々は同志と見ます」と書いている。最近、正信会の連中は法廷の証言などで山崎との黒いつながりを躍起になって否定しているが、一方では“我々の同志”と明言するに至ってはおそれいる。
“正信会”の中核である佐々木がなぜ“支援する会”に名を連ねているかといえば、檀徒達から金を集めやすいよう手をかしているということだろう。それにしても、あわれなのは檀徒達、山崎と“正信会”の黒いつながりによって信心を破壊され、さらには恐かつ罪の刑事被告人のための金集めまでに利用されている。
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この佐々木、昭和五十三年八月、若手僧侶の会合で「マスコミを使ったことが私たちの運動を助けたことを認めてほしい」と発言。マスコミ社会とは全く縁遠い彼ら正信会がマスコミを操って学会批判、宗門・学会離反説を流していた。
最近、発刊された「謀略僧団 悪業の巣」によると、山崎は、佐々木を「秀明……」と呼び捨てにして「坊さんだって、檀徒だって、全部おれが指揮をとっているんだ」と。つまり、陰で山崎が正信会を操り、マスコミの画策をしていたことが十分に分かる。
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山崎のマスコミ画策の手口については、恐かつ事件裁判(十五日)の大豆生田証言で、より一層、明白になった。
証言によると、昭和五十三年三月ごろ、大豆生田証人は、山崎の指示で、いわゆる“社長会記録”等を、二部、コピーした、と。
そのコピーが、山崎の指示で週刊誌編集部に届けられたことは、すでに法廷で明らかにされている。
また証言では、同年四月、週刊誌の記者と会うため、ホテルオークラに偽名で二部屋を借り、山崎の命令により、彼のもとにいた広野氏が記者と会い、山崎が別部屋から広野氏に指示を出していた。山崎のそばにいた大豆生田証人は「山崎が“藤井”と名乗り、受話器にハンカチをあてて、週刊誌記者と話していた」ことを目撃している。さらに同証人は、ホテルオークラに前金を払った“預かり証”を証拠として示し、その日付が四月七日であることまでも明らかにした。
山崎がリークした“社長会記録”などが、そのまま四月下旬にS週刊誌に掲載されたわけである。
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この証言で、山崎がどのように否定しようとも、学会批判記事を週刊誌等に書かせていたことは、動かせない事実となった。山崎の手口は、自分自身が“黒子”となって週刊誌に虚実織りまぜた情報を提供し、都合のいいようにマスコミに対して画策していたのである。
山崎の悪事が法廷で暴かれるにつれ、ますます彼は、一部の俗悪週刊誌に頼る以外に術(すべ)がないのだ。
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