山崎の陰険な手口、次々と
最近、檀徒の会合でも悪あがき
(57・1・17付)
“山崎事件”の第十六回公判が十四日、開かれた。この日は、検察側の証人として、宗門の光久諦顕尊師が証言。光久尊師は、日達上人が御遷化されるまで、永年、大石寺主任理事、御仲居として日達上人にお仕えしていた方である。
証言によると、昭和五十三年一月十九日、山崎と常に連携を取り合っていた正信会の浜中和道が大石寺内事部を訪れ、山崎から依頼された学会非難の文書を、日達上人に手渡していたことを明らかにした。
この文書が「
ある信者からの手紙」といわれるもので、同日、行われた若手僧侶の集会で読み上げられた。これが、いわば、学会攻撃の作戦指示書とでもいうべき内容のもので、以後、学会攻撃の基本戦略にされていったのは周知の事実。つまり、山崎は表面上は宗門と学会の双方に取り入りつつ、その実、陰にあっては宗門と学会の離間工作を陰険に企てていたわけで、その下書き原稿を、山崎が書いていたこともすでに法廷で明らかにされていた。実は、五十三年一月といえば、前年秋からの努力により、宗門と学会の一連の不協和も一応、修復の方向に向かっていた。事実、一月二日には日達上人は、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌を目指し僧俗和合して進むとの「訓諭」も発せられている。
ところが、山崎は、このような僧俗和合への道をつき崩そうと、この謀略文書によって、若手僧侶に学会攻撃をさせようと策したわけである。
また証言によると、これまでも宗門と学会の間に問題が生じた場合、日達上人と池田会長(当時)との話し合いですべて解決していた。しかし、山崎が介入しだしてからは、池田会長が日達上人に御目通りし、和気あいあいの雰囲気であったにもかかわらず、その直後、山崎が“池田先生の言っていることは本心ではない”“懐柔を図っているのだ”など、日達上人に池田会長に対する不信感をもたせるような言動をし、問題をこじらせていた、ことも明らかにした。
これにより、山崎が、日達上人に虚偽の話を流し「今後の作戦」「現下の情勢」などの謀略文書を使って、宗門と学会の離間工作を企てていたことが一層、明白になった。
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ところで、この山崎、今月十日に大分・竹田市の檀徒集会に顔を出している。会場となった伝法寺は例の浜中和道の寺。昨秋からの大分の学会同志の見違えるばかりの躍動ぶりに、檀徒の落ち込みがはげしく、あわをくって集会を企画したらしいが、県下から人をかり集めるのに四苦八苦だったとか。盛んにアジって士気をあおったらしいが、笛吹けど人は踊(おど)らず。はて、さて、彼らの空元気がどこまで続くやら。それにしても、信心に破壊し、刑事被告人である山崎に教えを乞う正信会の精神構造は、一体、どうなっているのか。断末魔のハッタリを聞かされる人こそいい迷惑だ。
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