「山崎は謀略のプロ」と内藤
一段と“恐かつ事件”明らかに
(57・2・14付)
“山崎事件”の第十八回公判が九日、開かれた。この日は、検察側の証人として内藤国夫が証言。内藤は、昭和五十五年七月号の月刊「現代」で、学会誹謗記事を執筆したが、山崎が、その記事のゲラを恐かつのネタに利用していた。今回の公判では、内藤が山崎に初校ゲラを渡すに至った経緯などが明らかにされた。
山崎と内藤の“黒いつながり”は、今では周知の事実だけに、内藤は、刑事被告人・山崎をなんとかばおうと、体裁をつくろい、言い逃れに躍起になっていたが、検察側の厳正な尋問によって“歴然たる事実”を認めざるをえなかった。
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証言によると、内藤は、昭和五十四年七月ごろ、学会の内部情報を入手するため、山崎と初めて接触。その後も、四、五回会っていた。そして十一月中旬、内藤は月刊「現代」一月号の学会誹謗記事を執筆。その原稿を書いている最中、山崎が彼のもとへ学会からの流出文書を届けた。それは、年末にかけ、ダンボール箱二箱分に及ぶものだった、と。そのなかに、いわゆる“北條報告書”があったとも。さらに、正信会のある僧からも“文書”の一部が提供されていたことを明らかにした。
じつは、この文書、原島が同年九月に聖教本社から盗み出し、山崎のもとに持っていったもの。その後、原島が、山崎から少なくとも一千万の“黒い金”を受け取っていたことは周知の事実。
内藤は、山崎、原島、そして正信会の悪侶達が結託して学会攻撃を仕掛けていたなかで、自分もそれに利用されていると知ってか知らずか、彼らの虚実織りまぜた情報と流出文書をもとに、学会中傷記事を書いていたのである。
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内藤と山崎らの“黒い関係”が深まり、翌五十五年五月になって、内藤は、月刊「現代」七月号に学会誹謗記事の執筆を計画。
証言によると、内藤は五月十八日、最初に書き上げた「現代」の原稿を山崎に見せた。すると山崎は「このような原稿を書いていることを学会にも知らせたほうがよい」と。さらに、山崎は、事実無根のスキャンダル話を提供、内藤は、その話を「現代」に書いたことが明らかに。
また内藤は「現代」の記事を執筆する際、多くの情報提供者がいたが、山崎だけに初校ゲラを渡すように「現代」編集部に頼んでいた、とも証言した。
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その点について、裁判長が「情報提供者が何人もいるということだが、なぜ山崎一人に初校ゲラを渡すことになったのか」と。
内藤は「他のディープスロート(情報提供者のこと)に会うのは難しいが、山崎はヒョコヒョコと顔を出すので……」と苦しまぎれの弁明に終始。
この裁判長の鋭い質問は明快。内藤は「現代」の記事を執筆する際、多くの情報提供者がいるように語っていたが、山崎だけに書き上がったばかりの原稿を見せ、初校ゲラを渡しているのは、その主な情報源が山崎だったことを裏付けている。
山崎は、入手した初校ゲラを、学会幹部にちらつかせるとともに、陰では、このゲラを週刊新潮等にも流していた。
こうして山崎が「現代」七月号の内藤記事のゲラを利用し、巧妙なマスコミ画策により、五億円恐かつに及んだのは周知のこと。
これについて、内藤は「現代」七月号の初校ゲラを、同誌発売以前に週刊誌に流したのは山崎であるとの認識をもっていると証言。さらに、内藤は「山崎は謀略のプロ」と思っていたので、山崎に「そんなこと(週刊誌に流した)をしたら、長続きはしない」と忠告していた、とも。
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内藤は“山崎を支援する会”の会報に「わが友・山崎正友さん」と題して記事を寄稿。彼が、刑事被告人・山崎を支援する立場にあることは明々白々。
ところが内藤は“同じ穴のむじな”である山崎をかばおうとしたのだろうが、動かしがたい事実をつきつけられて、これを否定することができず、しぶしぶ認めざるをえなかった。
それどころか、自身の立場を守るため“山崎は謀略のプロ”、山崎が自分を利用しただけ、とも受け取れる証言に終始。所詮、利害で結ばれた二人。山崎がどうなろうとも、内藤は“己の保身”が大切なのか。今回の内藤証言で、山崎の恐かつ事件、マスコミへの画策が、一層、明らかになった。
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