“黒い野心”で宗門との離間工作
山崎の画策、次々と暴かれる
(57・3・3付)
“山崎事件”の第十九回公判が二月二十六日、開かれた。陰険な謀略家・山崎正友による宗門と学会の離間工作は、今や周知の事実であるが、この日の秋谷会長の証言によって、その悪らつな画策が、一層明らかにされた。
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昭和五十三年一月十九日、若手僧侶の集会で「
ある信者からの手紙」が読み上げられた。この文書が、学会攻撃の作戦指示書ともいうべき内容で、以後、学会攻撃の基本戦略となった。実は、その下書き原稿が、山崎自筆のものであることはすでに法廷で明らかにされた通りである。証言によると、山崎は“1・19”直後、野崎青年部長(当時)に「総本山で若手集会があったが、たいしたことはなかった。学会のことはあまり出なかった」と連絡していた。
これが、真っ赤な嘘。山崎自ら書いた“学会を破門するという最後通告を出せ”“檀徒作りで組織の切り崩しを”という学会攻撃の作戦指示を与えた謀略文書がその集会で読み上げられていたのである。
自らが離間工作を企てながら、学会には平気でウソの報告。まさに二枚舌が、彼の画策の手口。宗門と学会の間で“マッチポンプ”となり、自らの醜い野望に酔いしれていたのだ。
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また証言では、同年二月十一日、秋谷副会長(当時)が、阿部教学部長(当時)にお会いした折り、山崎の動きが不審なため、思いあたるところをうかがった。
――その際、阿部教学部長は、昭和五十一年暮れ、浜中和道が訪ねてきて「学会攻撃の中心になってくれ。我々には軍師がいる。ある弁護士だ」と。その後、浜中が「山崎に会ってくれないか」とも。
翌年一月、今度は山崎から「先日、お話しした件ですが」と電話があり、同教学部長が「何の事ですか」と聞くと、しばらく無言のままでいたあと無礼な態度で一方的に電話を切ってしまった――。
実は、山崎、すでに五十一年ごろから、浜中和道(正信会悪侶)を使い、宗門への画策をしていたことが明らかになった。
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秋谷会長のこうした証言が続くなか、山崎の“黒い野心”、宗門と学会の離間工作の陰湿な手口が次々と浮き彫りにされていった。
山崎は、名誉会長の側近づらをして宗門の中にくい込み、学会への不信感をあおる画策に狂奔。宗門の権威を巧みに利用し、学会、名誉会長を押え込もうとした。
そして学会が困惑する状況を自らつくっておいて、山崎自身が宗門と学会の仲介者として登場し、双方を思いのままにできる“地位”をねらったわけである。
さらにその立場を利用して、金もうけしようとの強い欲望があったことも確かである。
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裁判が進むにつれ、山崎による宗門と学会の離間工作、正信会や原島と結託して学会攻撃するマスコミ画策などが、歴然としてきた。自らの裁判で窮地に追い込まれた山崎の悪あがきにも、とどめを刺される時期が近づいている。
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