山崎、ウソの上塗りも崩れる
“盗聴裁判”で次々と証言を変更
(57・7・21付)
最近の裁判で、山崎正友のウソ証言が次々と暴かれている。「一つの嘘をとおすために別の嘘を二十、発明せねばならない」という格言があるが、山崎の場合、一つどころか数えきれない嘘を積み重ねているので、もはや、多少の嘘を発明しても、つじつまが合わなくなってきた。
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その典型的なものは、、宮本邸盗聴事件裁判における山崎の狼狽ぶりである。
十四日に開かれた同裁判は、前回に引き続いて被告・山崎に対する反対尋問が行われた前回(六月十六日)の公判廷で、山崎は、昭和四十五年七月三十日、総本山での夏季講習会講義担当者会で池田会長に叱られ、すぐその席を立ち、夕刻に下山したという、これまでの証言を、歴然たる証拠写真によって突き崩された。
ところが、山崎は、盗聴事件と池田会長、学会首脳とを関連づける重要な証言が崩されると、彼の証言の信ぴょう性が失墜するばかりでなく、ますます山崎の独断による盗聴行為ということが浮き彫りにされるため、新たなウソを発明せざるをえない窮地に追い込まれていた。
そこで山崎は、今回の公判廷において「記憶を喚起してみると、たしか七月三十日か三十一日に、一度、東京に帰り、また総本山に登山した」と、証言を変更してきた。
北條前会長の代理人である松井弁護士は「あなたは、何のために東京に帰り、何日いたのか」と尋問。山崎は「盗聴事件の関係者と会い、その日は東京にいた」とぶ然とした表情で答えた。
松井弁護士は、七月三十一日夜に総本山で開かれた学生部の全国幹部会(前期)の写真を示し「最前列に写っているのは、あなたではないか」と鋭く追及。
山崎は、一瞬、ギクッとして「視力が弱まっているのでよく見えない」と、子供だましにもならない弱音を吐いて写真を見つめる始末。しかし、明瞭に自分が写っているのを否定できず「私が幹部会に出席している可能性はある。だが、私の記憶では、東京に帰っていたはずだが……」と逃げたが、結局、認めざるをえなかった。
またしても、山崎のウソが発覚してしまった。往生際の悪い男である。謀略のプロ・山崎が、どれほど真っ赤なウソを積み重ねても「事実」の証拠写真には、所詮勝てるわけがない。
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続いて、広野輝夫氏の代理人である漆原弁護士が「昭和五十五年六月ごろ、共産党機関紙『赤旗』の記者から盗聴事件の取材を受けているか」と尋問。山崎は「六月中旬ごろ取材に応じた」と。
そこで漆原弁護士は、同年六月二十二日付「赤旗」日曜版を示し「盗聴事件に使用したという機材七点を列挙してあるが、それらはすべて宮本邸盗聴に使ったものか」と、機材一点ずつの確認を迫った。
山崎は、七点のうち四点の機材は使われていないと言い、赤旗記事の間違いを認めた。
さらに漆原弁護士は「それは、赤旗記者が間違えたということか」と追及。
山崎は「他の話と混同して、赤旗記者がそのまま書いたのではないか」と、苦しまぎれに赤旗に責任をなすりつける結果となった。赤旗が間違えていい加減な記事を載せたのか、それとも山崎がデタラメな話をしたことをそのまま赤旗に掲載したのか――いずれにしても、山崎の作り話だけに頼って、事実確認もせず報道すると、必ず、このようないい加減な結末になることを、内藤国夫らの例とともに、またまた示した一コマである。
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裁判経過の一部しか紹介できないのは残念だが、こうした弁護士と被告・山崎とのやりとりでも明白なように、山崎はデタラメ証言のつじつまを合わせるために、新たなウソを案出し、証言をクルクルと変更してきたが、今回も、動かぬ証拠を突きつけられ、すべて崩れてしまった。
月刊ペン裁判といい、恐かつ裁判といい、山崎の出廷する裁判では、不思議と彼のウソを証明する証拠が次々と出てくる。その都度ビクつく山崎。最近では、あたかも“証拠恐怖症”にでもとりつかれたように、何か出されるたびに恐る恐るそれを手にして顔をゆがめる日数が増えている。
それもこれも、自らが作ったウソの清算だからいたしかたあるまい。全く哀れな男である。
モンテーニュではないが「嘘ばかりつく人間だと思えば、こちらは正反対を信じていればよい」の現代の典型的な例は、山崎の場合にもっともあてはまることが、ますます客観的に明らかになっていることを伝えておきたい。
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