忘れられまいともがく

「卑しい自己宣伝」

(56・10・25付)

 第七百御遠忌大法会は十六日、盛大裏にその幕を閉じた。連日、諸天も寿ぐ見事な快晴。六万人にものぼる大参列者。海外の同志の晴れやかな顔も。数多くの新聞も、この盛儀の模様を掲載。慶讃登山も一月の開始以来九か月間で海外信徒を含めて既に百七十万人を超えていると報じている。この半世紀で五千万人が総本山に参詣したことになる。宗祖の称賛いかばかりか。信徒の喜び、これに過ぎるものはない。

 終了御講で藤本栄道総監があいさつ。「大聖人様の御威光と、御法主日顕上人猊下の御威徳はもちろんのこと、宗内僧俗の和衷協力による真心の御供養と、特に池田名誉総講頭殿の御遠忌慶讃委員長としての深心の外護の賜(たまもの)」と。

 大法会のさなか、登山禁止になっている“正信会”の悪侶や檀徒達が総本山にやってきた。

 この徒輩、今にいたるも「今の猊下には血脈がない」「総本山は魔のすみか」「戒壇の大御本尊と雖も即久遠元初の自受用報身如来であると断定するわけにはいかない」――と。総本山、御法主上人を否定し、大御本尊さえも否定しているのに、なぜ、いまさら登山する必要があるのか。

 彼らのバスの中にはテレビ局のカメラが。俗悪週刊誌の記者や内藤国夫もいた。彼らの意図はみえみえ。ひと騒ぎ起こして、今や忘れ去られようとしている自己の宣伝を図ろうとする卑しい魂胆だ。信心にかこつけた大謗法の姿そのもの。

 悪僧の一人で破門された佐々木秀明は気取りに気取って二年前「第七百御遠忌の時には、どちらの信心が正しかったか、はっきり決着がつくはず。つかなければウソ」と檀徒大会で大見えを切った。

 誰がみても、その決着は明々白々だ。

 「正信会の策謀好きの僧侶に乗せられ、謀略の小道具に私共夫婦は使われただけだった」「正信会は猊下の批判にあけくれ、檀徒の悩みに耳をかそうともしない」等々の檀徒の声が激しい。

 某週刊誌での原島嵩の言たるや、珍妙で抱腹。“学会が武力クーデター作戦を練っていた”と。「革命決行の日に大型トラックを路上に倒して」とか「消火器を買い込んでおいて警察官にひっかけ」とか、自らの幼児性まる出しの発想。

 共産革命ではあるまいし学会とクーデターを結びつけるのも荒唐無稽(こうとうむけい)だが、その空疎な内容たるや、余りに幼稚でマンガにもならない。口を開けば開くほど、お粗末さをさらけ出す昨今である。彼の妄想狂はかくのごとく一事が万事である。

 

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