だまされた檀徒達の嘆きの声

(56・10・27付)

 悪侶や策士にだまされ、利用され続けてきた檀徒達の嘆きは、今深い。「軽率だった」「学会ほどいい世界はなかった」――縁故の学会員のところにきて、彼らは苦渋と悔恨をにじませながら語る。

 その幾つかの嘆きの声――。

 「学会はいずれ本山と別れる。今のうちに檀徒にならないと登山もできない、葬式も出せない、功徳もなくなる、と脅された。だが、現実はまったく逆になっている。気が狂うような思いだ」「正信会の僧侶は七百遠忌までに決着がつくといった。ところが七百遠忌だというのに登山もできない。なんのためにやってきたか分からない」

 「自分は学会が好きだったし、池田先生を心の奥では今でも尊敬している。しかし、正信会の連中にそそのかされ、週刊誌に惑わされてしまった。でも、檀徒になって謀略の数々が分かり、イヤな思いの連続だった。今はただ申し訳なく思っている」

 「国会請願デモの署名も必死でやった。ところが、賛同者はなく、何百人もの名前を勝手に書いて、十本の指で“母印”を押しまくった。私みたいな人はざらにいる」

 「山崎や原島や内藤がいるからと安心させられていた。だが、一人は警察につかまり、一人は生活もデタラメ、言うこともとっぴなことばかり。一人はまるでブラックジャーナリスト。愚かな自分が惨めで、悔いても悔いきれない」

 「僧侶らにそそのかされて檀徒づくりをやったが、今にして思えば“退転者づくり”だった。自分の罪が恐ろしい」

 「学会中傷の週刊誌を読め読め、というばかりで、御書を読めとはいわれたことがなかった」

 「法門の話を聞けるのかと思ったが、とんでもない。人が集れば、猊下や学会の悪口ばかり。そのあげく仲間の足をひっぱりっこ。およそ人間の世界とは縁遠いものだった」

 「相談ごとにいっても、時間がないといって取りあってくれない。その実、僧侶は庫裏(くり)で酒を飲んでいる。陰で檀徒のことを“おもちゃ”とさげすみ、利用されるばかりだった」

 日蓮大聖人の御金言に「悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度・其の数に随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり」(御書一三四一n)と。

 善友を捨て、悪人につけば、ついには信心を破壊して悪人となり、堕獄の因を刻んでいくとの、厳しい戒めである。仏法ではこれらを“人非人”という。

 

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