邪説重ねる久保川ら
戒壇の大御本尊を否定
(56・11・20付)
悪侶達のグループ正信会会長の久保川法章、以前より「戒壇の大御本尊と雖も、即久遠元初の自受用報身如来であると断定するわけにはいかない」と、大御本尊を否定する邪義を唱えていたが、最近の「仏生」誌(久保川が発行)でもさらにその邪説を繰り広げている。
云く「戒壇の御本尊に就いても、宗開両祖は戒壇の大御本尊が末法総与の御本尊であり、広宣流布の時戒壇堂に安置し奉る御本尊であることは一言も公言されておらず、全国の信徒に対し参詣して拝し奉るよう勧奨されたこともない」と。
また「此の御本尊は代々の貫主から貫主へ密付したものであって、その外の僧侶は密かに遥拝(ようはい)するのが両祖の意に適った正しい本宗の信仰であり、現在宗門と学会が毎日何千人もの人々に公開し、金儲けの種にしているのは、宗祖の意に反する謗法行為であることが研鑚の結果明かになった」とも。
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戒壇の大御本尊が末法総与であることは「三大秘法抄」「本尊抄」等に明確であり、第二十六世日寛上人も「一閻浮提総体の本尊」と仰せである。また、大御本尊を戒壇堂に御安置し奉ることは「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を授与す本門寺に懸け奉る可し」(日興跡條々事)との御文等で明らかなこと。
さらに、代々の御法主に密付された大御本尊を信徒に拝させるか否かは、御法主の裁量であって血脈なき僧らが云々すべき筋合いのものでは、もとよりない。難可値遇(なんかちぐう)の大御本尊にお会いしたいとの信徒の信心を汲まれて御開扉し内拝を許されている御法主上人の御慈悲も分からず、その御内拝を“公開”だと曲げていったり、まして“金儲けの種”とは言語道断。正宗の甚深の義を愚弄する大謗法の徒輩であろう。
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久保川は“この点を檀徒に指導していたから、登山停止になっても檀徒の動揺は全く見られなかった”と。また、こうした邪説を吹聴していなかったら「登山停止の一言によって、正信会は一夜に崩壊したであろう」とも。とんでもない。登山停止になった檀徒の嘆きは深く、正信会も四分五裂を繰り返していることは周知の事実。全くの骨の髄まで邪儀邪説に侵された正信会である。
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悪僧達にそそのかされた檀徒の謗法新聞「継命」の最近の言い分は、実に哀れ。“遠忌までには決着”と大見えを切ってきた反動か、やたらみじめな総括ばかり――。自分たちの内情を暴露して「自己の信心修行をおろそかにして他人への非難ばかりに終始」「正信御僧侶を怨嫉し、慢心を起す者も出た」「週刊誌等の報道に一喜一憂し、肝心要の運動の本質、原点を見失っている」「今日のごとき無念な形で遠忌法要がなされてしまった責任を、一人一人が深く考えてみよう」等々。
加えて「継命」も「本紙もその読者の声を十分活かしきれなかったと深く反省している」と。もとより、御法主上人に反逆し、山崎や原島の言にたぼらかされている正信会。どんなに反省を叫んでも、自らの信仰の破綻と悪の野望をさらすだけ。聞くも哀れだ。
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