大御本尊否定の久保川論文

正信会がこっけいな弁明

(56・12・13付)

 最近の「継命」紙上で宗門より擯斥(ひんせき)された佐々木秀明の弁明がこっけいだ。彼らの会長・久保川法章の言、つまり「戒壇の大御本尊と雖も、即久遠元初の自受用報身如来であると断定できない」との文は、誤解されやすいが大御本尊を否定したものでない、というのだ。

 その理由の第一として「よく読めば分かるはず」と。なるほど、読めばその邪義ぶりがよく分かる。大御本尊が自受用報身の当体であられることは正宗の信仰の根幹である。二座の御観念文には「久遠元初・自受用報身如来の御当体」と明確に定められているではないか。

 またよく読むと久保川は「真に究極の本尊として拝するのは、凡眼には写らぬ大聖人の魂である」、そして「これこそ日蓮正宗が世界宗教となる為の基本的な本尊観である」とも言っている。これでは、曼荼羅を直ちに本尊とするのではないとの身延派と全く同様の発想。大御本尊を垂迹と見る邪見であり、理観に陥り、事の一念三千の法理にくらい邪義である。日興上人の「唯御書の意に任(まか)せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為可しと即ち御自筆の本尊是なり」(御書一六〇六n)との御制誡に違背していることも、誰人の目にも明らか。

 佐々木は更に、久保川の言わんとするところは「(宗門が)大聖人の御意、魂を忘れ、登山会と称して、戒壇の大御本尊を拝し奉るのみこそ信心の根本と教えているのは誤り」と宗門に問いただしたに過ぎないと。

 詭弁も甚だしい。「本宗の信行は、僧俗一途にして専ら大漫荼羅を礼拝」とは宗規に定められているところ。久保川は御開扉を「金儲けの種」と愚弄しているが、これらの大謗法の言動を改めるどころか、邪義を上塗りしているさまは、まさに大聖人の御意を亡失し、かえって弓を引く徒輩であろう。

 こうした邪説を臆面もなくふりまく久保川が正信会の会長である。会長といえば、会の責任者であり、その発言は会の見解を示すものであることは自明の理。ところが佐々木は“久保川は異流義。彼を会長とする正信会もまた異流義”との追求にたえかねてか「会長といっても、指揮権も命令権も、その他いかなる強制力をももっていない」、ただ「先輩老僧として尊敬」しているだけと、もっぱら言い訳にもならぬ説明に終始している。

 しかし、正信会会長は無力の存在といくら言い逃れても、邪説を唱える久保川を衆議一致して会長に推たいし「尊敬」していることは事実。かばえばかばうほど正信会の悪が暴露されていく。

 そもそもかつて佐々木は「蓮華」誌上(五十二年九月号)で「現法主を拝して大聖人に帰依し奉るところが、我々日蓮正宗宗徒の信心の姿勢」と断言している。それを今では御法主上人に反逆していることは周知の事実。自分達の都合で自語相違を平然と繰り返し、甚深の義さえねじ曲げている一人だ。

 久保川を会長とし、その邪義を破すどころか同調している正信会。どんなに言いつくろっても、大御本尊、そして御法主上人をそしる言動の数々に、宗門を破壊しようとする魔の正体が明確に浮かび上がっている。

 

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